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2008/09/21

■支え合いの文化があればお金などなくても生きられるはず

北朝鮮ジャーナリストによる北朝鮮の実状映像をテレビで見ました。
こうした状況を放置している隣国の国民として、複雑な思いを持ちました。
政府にもし、人道支援なる考えがわずかにでもあるのであれば、先ずは隣国の惨状を正すことです。
それができずにイラクやアフガンに関わることはできないような気がします。
しかし、では自分に何ができるかと問えば、何もできない現実があります。
北朝鮮支援に関わっているNPOへの寄付くらいでしょうか。

その映像を見ながら、思ったことがもう一つあります。
もし彼らに支えあう関係が存在していたら、こんな悲惨な状況にはなっていないだろうということです。
生活を分かち合うことは生きるものの本能の一つだったはずです。
アダム・スミスもこう書いています。
「いかに利己的な人間であっても、彼の本性には、他人の運命について思いを馳せ、その幸福を、自分にとってはそれを見ることの楽しさ以外は何の関係も無いのに、大切にしようとする衝動が備わっている」。
西田幾多郎は、人間から愛他心を除けば、何も残らないといいました。
隣に問題を抱えている人がいたら、自然と手を出すのが人間です。
そしてそのことによって、社会は成り立ってきたのです。
しかし、そうした状況があれば、強権支配はできません。
「分断」こそが支配の基本なのです。

この数十年、日本の社会もそうした自然な支え合いの関係や構造を壊してきました。
それを壊すことが、まさに産業にとっての市場を拡大することであり、政府にとっては従順な僕、民を増やすことだったのです。
西田幾多郎がいうように、愛他心のない人間は人間とはいえません。
そうした人間もどきが、今の社会を構成しているとしたら、まさに金銭が猛威をふるうことになるでしょう。

一見した状況は全く対極にあるように見えて、もしかしたら北朝鮮と日本の現実は、同じものなのかもしれません。
そうならないように、お金や物を超えた、人のつながりをもっともっと育てていきたいと思います。
たまたま昨日、共済研究会で「共済の心」について少しだけ話をさせてもらう機会がありました
支え合いの文化があればお金などなくても生きられるはず、というのが私の考えですが、たぶん「たわごと」に聞こえたことでしょう。
しかし、今の時代は「たわごと」にもしかしたら真理がある時代ではないかと思います。
お金があっても、人とのつながりがなければ生きていくのは楽しくないでしょう。
いや、それどころかもしかしたら突然にお金が紙くずになることもあることを考えれば、お金に依存する生活の脆さは分かるはずなのですが。

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