■節子への挽歌424:ホモ・エスぺランサ
人間はホモ・エスぺランサであると言ったのは、エーリッヒ・フロムです。
ホモ・エスぺランサ、「希望する人」というような意味でしょうか。
希望を持つとは、人間であることの根本条件である。希望がもてないと、この挽歌で書きましたが、「希望」という言葉は、いつもずっと心にあります。
希望が失われたら、生命は事実上あるいは潜在的に終りを告げたことになる。
希望は生命の構造および人間精神の力学の本質的要素なのだ。(「希望の革命」)
希望がなくても生きていけるかもしれないと書きましたが、やはり人間はホモ・エスぺランサですね。
生きるということの中に、「希望」は内在していることに、最近気づきました。
「希望」という言葉が気になって、30年ぶりに書棚からフロムの「希望の革命」を取り出して読んでみました。
とても元気づけられたような気がします。
「希望の革命」は40年前に書かれた本ですが、昨今の日本社会のことを書いているのではないかと思わせるほど、示唆に富んでいます。
たとえばこんな記事もあります。
ますます多くを生産することを目指す経済社会は、人間をまさに機械のリズムや要求に支配される付属品に還元してしまう。人間は生産機械の歯車として、一個の物となり、人間であることをやめる。彼は作っていない時には消費している。そして、フロムは「私たちは、すでにロボットのように行動する人たちを見ている」と書いています。
それから40年。
ロボットであることを強要される時代になってきたのかもしれません。
ロボットは、希望とは無縁に存在できます。
フロムは、
希望を持つということは一つの存在の状態である。と書いています。
それは心の準備である。
はりつめているがまだ行動にあらわれていない能動性を備えた準備である。
フロムのメッセージを読み違えているかもしれませんが、
残された者に、大きな悲しさと寂しさを遺していくのは、先に逝った者の、大きな愛の贈り物なのかもしれません。
私の場合は、その愛のおかげで、挽歌を書き続けられているわけです。
そして、それがある意味で、私の生きる源泉にもなっているのです。
奇妙な言い方ですが、「大きな悲しさと寂しさ」を維持しつづけることの先に、どうも私の希望があるような気がしだしています。
「大きな悲しさと寂しさ」がなくなってしまったら、愛する節子が不在な世界に生きている意味は、それこそないのかもしれません。
「愛」を知った人は、いつも「希望」に包まれているのです。
「悲しさと寂しさ」は「希望」と同じものなのかもしれません。
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