■姿の見えない独裁者
いつの間にか、解散への関心が消えてしまったような気がします。
私自身は、国民の信をしっかりと問うことによって、政府の正統性は確認され、そのリーダーシップや信頼性がつくられると考える人間ですので、目先の経済政策がどうのこうのという短視眼的な発想に惑わされてはいけないと考えています。
それに、政治の空白とか政局より政策などという、実体を伴わない言葉だけの議論には騙されない程度の知性は持っています。
日本のような官僚制度が整備されている場合、選挙が行われても大丈夫のはずです。
たとえ「腐った官僚制度」であろうとも、機能はします。
それに関してはすでに以前書きました。
いうまでもありませんが、民主政治は独裁者を排除します。
しかし、そこには一つのパラドクスが存在します。
独裁者の排除を主張する者が、結果として、独裁者の地位になってしまう、というバラドクスです。
その独裁者とは、いうまでもなく、国民です。
しかし国民はまさに「マルチチュード」、多様で多数の存在ですから、一つの実体に束ねることなどできません。
そこで国民の創意を代表する人が首相になりますが、問題は彼を排除する方法はありません。
解散権も辞職権も、その人が専有するからです。
自治体の首長の場合には、リコール制度がありますが、国家の首相にはありません。
彼はまさに独裁者になれるのです。
しかも、国民の創意なるものは実在しませんし、いかようにも編集できます。
たとえばつい先日まで、自民党政府も民主党も、自らの考えの正当化の根拠に「国民の意思」を使っていました。
世論調査でいかに反対が多くても、首相は居座ることができます。
さらに言えば、国民世論調査結果を誘導することは簡単です。
調査機関によって数値がかなり違うことが、そのことを物語っています。
そして居座り続けると、よほどのことが無い限り、国民の意思は現状肯定に傾きます。
首相と野党代表と比べると首相のほうが信頼できる、と思う傾向が、多くの人の無意識の世界に埋め込まれています。
権力の大きい方につくことは、生命として生きていくための本能だからです。
そして、政府の方が政策実行力を持つという当然のことが、政策実行能力と混同されてしまうわけです。
支配されている民の、哀しい習性です。
民主主義とは、実は「姿の見えない独裁者」が支配しやすい政治体制なのかもしれません。
それにしても、小泉首相以来、4人の首相は、まさに独裁者的な地位をあまりに無邪気に楽しんでいるような気がします。
首相の座を実に楽しんでいる麻生さんは、解散などしたくないのは明らかです。
「文芸春秋」の記事は、首相になれないと思ったから書けたのでしょう。
いずれにしろ、民主党の小沢さんとは全く違う世界の人のようです。
勝敗は明らかです。
勝つ気のない人は、いつも勝てるのです。基準が自分の中にあるのですから。
麻生さんには、勝つ気など最初から無いのですね。
最初から政治をする気などなかった福田さんと同じタイプの私欲の人だったようです。
日本のマルチチュードは、見えない独裁者の道を選びつつあるのでしょうか。
政治の時代は終わったのかもしれません。
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