■節子への挽歌410:夫婦とは不思議な存在
挽歌409で、
この挽歌は、私自身の鎮魂歌でもあるわけですが、実は挽歌よりも懺悔を書いたほうがいいのではないかと思うこともあります。と書きました。
頭の中にぼんやりとある思いを文字に書くと、意識が覚醒されるというか増強されるというか、考え方が変わってしまうことを、この挽歌を書いていて実感しています。
概念は言葉にして初めて実体化されることがよくわかります。
毎日、この挽歌を書き続けることで、私の節子観は大きく変わりましたし、自分観も変わりました。
もちろん節子との関係も変わりましたし、私の生き方も方向づけられて気がします。
言葉や文字の持つ力は実に大きいです。
409で何げなく文字にした「懺悔」と言う言葉が、その後、妙に私の意識にひっかかっています。
この挽歌には、やはり自分をよく書こうという意識が働いているはずです。
この挽歌を読むと、私がとてもやさしい良い夫のように思えるかもしれませんが、
実際は、ここに書かれているよりもずっとダメな夫だったのです。
節子はいつも私のことを完全に信頼していました。
私がいる時には、安心してわたしのすべてを任せていました。
病気に関してもそうでした。
にもかかわらず、私は肝心のところで気を許してしまったのです。
今から思えば、もっともっとやれること、やるべきだったことがたくさんありました。
それをやらなかった。
ダメというよりも、冷淡と言ったほうがいいかもしれません。
そのことを思うと、節子に申し訳ない気持ちで一杯になります。
そのことを、きちんと書いておかねばならないと思いました。
懺悔の言葉を懺悔しなければ、懺悔にならないというおかしな話なのですが。
愛する人を見送った人は、たぶんみんなそう思うのかもしれません。
自分はなんと「人でなし」なのだろうか。
そういう思いが時々胸にこみ上げてきます。
友人はお前はよくやったと言いますし、節子の友人たちは節子さんは幸せでしたよ、と言ってくれます。
でも、外からは私と節子の心の関係は見えるはずもないのですから、私には何の救いにもなりません。
節子に申し訳なくて、時々、涙をこらえられなくなるのです。
その悲しみの瞬間が、時々、やってきます。
しかし、奇妙な言い方ですが、その瞬間に私を慰めてくれるのは、節子その人なのです。
鎮魂歌も挽歌も、懺悔も、すべてが私のものでも、節子に対するものでもなく、私たちのものなのだと最近痛感しています。
一昨日も書きましたが、夫婦とは不思議なものです。
まさに2つにして一つの存在なのです。
ですから、外部から見ると、伴侶に対してとても冷酷に見えても、実際はそうではないのかもしれません。
本当に、夫婦とは不思議な存在です。
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