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2008/10/10

■「わが事のように悲しい」

昨日の続きです。
「わが事のようにうれしい」という思いが広がれば、世界は平和になると書きました。
では、「わが事のように悲しい」はどうでしょうか。

世界中でいまなお紛争が続いています。
構造的暴力といわれるような、人権侵害状況が続いている地域も少なくありません。
世界は「幸せの数」よりも「不幸の数」の方が圧倒的に多いのかもしれません。
悲惨な状況をテレビや新聞で知った時、多くの人は痛ましく思い、何かできることはないかと考えるはずです。
しかし実際に行動を起こす人はほとんどいないでしょう。
私自身もそういうタイプです。
「わが事のようにうれしい」は、喜ぶだけで完結できます。
しかし、「わが事のように悲しい」はそれだけでは完結しません。
ずっと心に残ります。
わずかばかりの寄付をしたところで、その痛みは消えません。

「わが事のように悲しい」は、実は「自分の悲しさ」につながっていくのです。
不幸なことに、そうした「不幸な状況」は、世界中いたるところにあります。
日本国内でもたくさんの「不幸」があります。
マスコミを騒がす陰惨な事件の背後には、事件そのものと同じくらい悲惨な状況があることも少なくありません。
加害者だけを非難することにも迷いがあります。
そうしたことを「わが事のように悲しい」と受け止めていると、自分の悲しさは膨れ上がり、気力を奪い去ってしまいかねません。
ですから、他人の不幸には深入りするにはよほどの決意が必要です。
お恥ずかしいことに、私にはその勇気が欠けています。

しかし、それでは社会はよくならないのかもしれません。
自分のことしか考えてこなかった、これまでの生き方を反省しなければいけません。
しかし、「わが事のように悲しい」思いを持ち続けることもまた、世界の平和に通じていると思いたいです。

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