■節子への挽歌403:「男は現象、女は存在」
節子
多田富雄さんと鶴見和子さんの書簡のやり取りをまとめた「邂逅」(藤原出版)という本を読み直しました。
前に読んだ時とは全く違った印象を受けました。
今回はかなりていねいに読んだからかもしれません。
その本の中で、多田さんが「男は現象、女は存在」と書いています。
少し長いですが、少し簡略化して引用させてもらいます。
以前に中村桂子さんや養老孟司さんと、「私」という堅固で連続したものを感じているかという議論をしたことがあります。過去の自分が、同一性を持って現在の自分につながっているかどうかに、養老さんも私も自信がないといったのに対して、中村さんは安定した「自己」をいつも感じているとお答えになったのを思い出します。そのときは二人で「やはり女はすごい」と感じ入ったものです。男には根源的な「自己」に自信がもてないのです。近代的自我とか、自己の確立というような理屈ばかり考えている。まさに「男は現象、女は存在」です。「男は現象、女は存在」。
動かない大地のような自己がある女性に対して、男性はふらふらと浮遊する頼りない存在ということでしょうか。
天動説の女性と地動説の男性、と言えるかもしれません。
若い頃は逆のようにも思っていましたが、最近は私もそんな気がしています。
男性は女性には勝てません。腹の座り方が違うのです。
多田さんは、こうも言います。
「自己」というものは堅固なものであり、すべての変化は自己言及的に行われる、というのは確かです。その自己は実存的なもので、変えることはできません。しかし、まったく別のものが生まれることもあります。というより、堅固な安定した「自己」ではなくて環境に新たに適応してあらたに生成した「自己」というものもあると考えた方がいいのではないかと考えたのです。環境に新たに適応してあらたに生成した「自己」に移行しやすいのは、どちらでしょうか。
現象でしかない男性の方が移行しやすいはずです。
移ろいやすいのは女心ではなく、男性のような気がします。
多田さんは、さらに書いています。
日々変化している自己。昨日の「自己」と、今日の「自己」とは同じだという保証はない。でも、基本的には同じ行動様式を続けています。いかなる逆境にあっても前向きという行動様式は、遺伝的に決まったものでしょう。私にはいずれもとても納得できる言葉です。
節子がいなくなった後、全く違った自分になったような気がしながら、
全く変わっていない自分もいるのです。
自己言及的に変化する自分と、それとは全く無縁に環境変化に合わせて創発される自分とが、私の中に並存しているのです。
そういう実感の中から、アイデンティティもまた階層的な概念だと思うようになりました。
こういうややこしい議論は、節子は好きではありませんでしたが、私は大好きなのです。
その2人がいつも楽しく話し合えたのは、今から思うと不思議です。
その秘密は、「男は現象、女は存在」にあったのかもしれません。
残念ながら議論で勝つのは、いつも節子でした。
言葉では私が言い負かすのですが、言葉は所詮言葉でしかありません。
それはともかく、遺伝的に決まった行動様式にそって、これからも前向きに進みたいと思います。
それが生命的に素直な生き方なのだと知って、安堵できました。
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