■節子への挽歌397:近所同士が支えあうような暮らし方
節子が残してくれたことはたくさんあります。
その一つが、私たちが気持ちよく暮らせるような状況です。
節子が目指していたのは、近所同士が支えあうような暮らし方でした。
前に住んでいたところでは、しかしあまりうまくいきませんでした。
それでここに転居してきた時には、節子は今度こそ近隣で下町のように付き合える関係を育てたいといっていました。
しかし、その活動ができたのは転居してからわずかでした。
病気になってしまったからです。
病気が少し良くなった2年間も、節子は近所づきあいを試みました。
節子は、私と違って、機が熟すのを待つようにゆっくりと進める人でしたから、節子がやれたことは本当にわずかなことでした。
しかしそのおかげで、私たち残された家族もやさしい近所のみなさんに支えられています。
節子が望んでいた文化はちゃんと残っています。
節子にすごく感謝しています。
節子が見ていたのは、近所づきあいだけではありませんでした。
花かご会の活動の先に、節子はそうした活動の輪を市内各所に拡げていきたいと思っていました。
しかし、節子の感覚では、それはかなり先のことでした。
私がいろいろと意見をいっても、あなたのは頭だけで考えているからダメ、と拒否されました。
それでもいろいろと意見は聞いてくれました。
自らの足元から変えていく、これが節子の生き方でした。
どちらかと言うと、理念先行の私には歯がゆく退屈でしたが、次第に節子のやりかたに共感するようになって来ました。
私の生き方は、たぶんこの6年で大きく変わったはずです。
発病した節子が、しっかりと教えてくれたのです。
私は「いい生徒」ではありませんでしたが、節子は「いい先生」でした。
人の幸せは、気持ちよく過ごせる生活の場に尽きると思いますが、節子は私にそれを残していってくれました。
私がいま元気なのは、節子が残してくれた生活の場のおかげです。
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