■節子への挽歌426:節子はどこにいるのでしょうか
節子
昨夜も朝方に目が覚めてしまいました。
それからまた眠られなくなり、節子のことをいろいろと考えていました。
いつも最初に考えることは一緒です。
なぜ隣に節子はいないのだろうか、ということです。
節子が元気だった時も、病気になってからも、私は節子に、「節子がいなくなったら生きていけないから、私より先に逝くことはやめてね」と言っていました。
言葉だけではなく、私自身そう確信していました。
節子もたぶん、そう思っていたはずです。
だから病気になってからは、私の自立計画を考えてくれていました。
それを感じて、私はますます、節子がいなくなったら生きていけないかもしれないと考えるようになりました。
生きる意欲がなくなれば、人は死ぬものだという話を昔、読んだことがあります。
イヌイットの世界の話だったと思いますが、たぶん私もそれなりに自然に生きているつもりでしたから、そうなるような気がしていました。
そして、節子がいなくなりました。
にもかかわらず私は今もなお、ここにいる。
この事実が、最初はなかなか理解できませんでした。
理解できた今も、信じられずにいるのです。
「節子がいないと生きていけない」といった私の言葉は、嘘だったのでしょうか。
そう思うととてもやりきれない気持ちになります。
このブログでも何回か書きましたが、そうしたことに対して、一応、自分でも納得できる論理を見つけてはいるのですが、論理と感情は別の世界の話です。
「節子がいないと生きていけない」
もしこの言葉が嘘でなければ、きっとまだ節子はいるのです。
私が生きている限り、節子もまたいるわけです。
そう思わないと辻褄があいません。
では、その節子はどこにいるのでしょうか。
夜目が覚めて思うのは、いつもこの難問です。
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