■節子への挽歌417:ほどほどに忙しいのがいいのかもしれません
節子がいなくなってから、時間がありあまるほどあるような生活をしています。
昨日も実はオフィスに行ったのですが、出かける時にむすめに、用事があるわけではないので行っても何もすることはないんだけれど、といったら、家にいても何もしないのだから行くだけでもいいんじゃない、と言われました。
いやはや。まあ、その通りなのですが。
ところがみんな、相変わらず忙しいのだろうねというのです。
私が「忙しい」という言葉が嫌いだったことは、節子はよく知っていました。
自分では忙しくしないように努めていましたが、いま思い出すと、その節子さえもが「忙しいのに悪いわね」というようになりました。
私が仕事などをすべて辞めて、自宅で過ごすようになってからです。
自分では、忙しくしないように努めていたつもりですが、きっと周りからみると忙しい生き方をしていたのでしょうね。
自分でもそうだったと思えるようになったのは、お恥ずかしいのですが、つい最近です。
節子は私を正していたのかもしれません。
ごめんね、節子
あなたの言葉の意味を理解できずにいたようです。
家にいてもなお、忙しくしていたのかもしれませんね。
節子から、パソコンに向かいすぎだといわれていたのを思い出すと慙愧の念に堪えません。
後悔、先に立たずです。
落ち込んでしまいます。
節子がいなくなってから、やっとその忙しさから抜け出られたのかもしれません。
でも周りの人は、まだ私が忙しいと思っているのです。
私自身の生き方のどこかに、きっと間違いがあったのでしょう。
「忙しい」とは「心を失う」ということです。
節子はそのことをよく知っていました。
私も知っていたつもりですが、どうも言行一致していなかったわけです。
忙しさから解放されて、しかも節子がいなくなったからでしょうか、最近は本当に時間がたっぷりあります。
そのおかげで、いろんなことが見えてきます。
見えすぎて、心が痛むことも少なくありません。
人間はほどほどに忙しいのがいいのかもしれない。
最近、そんな気がしてきました。
こんなことを書くと、そんなに時間があるのなら、約束していることを早くやってよと言われそうですが、それとこれとは別なのです。
やらなければいけないことが山ほどあっても、やる気がでるまで待つのが、「忙しくない生き方」なのです。
すみません。
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