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2008/10/25

■節子への挽歌420:なぜか写真が撮れなくなりました

節子
先日、あなたがいなくなってからカメラを使ったのは3回だけです。
1回は西川さんが献花台でハーモニカを演奏してくれた時、
2回目は、やはり西川さんと福岡の武蔵寺に行った時、
そして3回目が、先日の宮内さんのライブです。

私は昔から写真を撮るのが好きでした。
家族の写真は山ほどあります。
節子にも娘たちにも、写真を撮りすぎるといわれていました。
私は撮るだけで整理はすべて節子の仕事でした。
私は今のところ、過去にはほとんど興味はないのですが、その一方で、いつか節子と一緒に過去を追体験したいと思っていました。
ですからその材料はたくさん残しておこうと思っていたのです。

しかし、節子がいなくなってから、その気持ちが全くなくなってしまいました。
同時に、写真を撮るという行為に全く興味を失ってしまいました。
写真を見ることも興味を失ってしまったのです。
節子が残してくれた数十冊のアルバムがありますが、見る気になれません。
むすめたちも、私以上に過去に興味がないようで、写真を見ることは滅多にありません。
さすがに今の段階では、節子の写真を焼却する気にはなりませんが、
この膨大な写真は、私がいなくなったらきっと焼却されるでしょう。

写真には興味を失いましたが、いつも節子の写真を1枚だけ持ち歩いています。
節子がいた時には、節子の写真を持ち歩いたことは一度もありませんが、今は必ず持ち歩いています。
自宅の各部屋に、節子の写真も置いています。
どこにいても、節子に会えるように、です。
私には、それは写真ではなく、節子そのものなのですが。

写真が撮れなくなった。
いつもはどこに行くにも小さなカメラを持参していましたが、今はそれさえしなくなりました。
なぜでしょうか。
写真に撮られると魂を抜かれてしまうと信じられていた時代があったといいます。
相変わらず脈絡はないのですが、それは真実なのかもしれないという思いがしてきました。
節子の写真を撮りすぎてしまったのかもしれません。
写真を百万枚集めても、節子にはなりません。
写真など撮らなければよかったと後悔します。
愛する人を失った人は、そんな気持ちにもなるものです。

節子
写真ではない節子にもう一度会いたいです。

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