■ワーク・ライフ・バランスへの違和感
最近、「ワーク・ライフ・バランス」を口にする人が増えました。
昨年には、仕事と生活の調和推進官民トップ会議で、「ワーク・ライフ・バランス」憲章なるものも策定されました。
人によって自分の立場に合わせて都合よく語っていますので、よほど注意して聞かないと危険です。
流行語になったり、政府が予算をつけたりすると、途端に口にする人が増えるのが、日本の特徴ですが、生半可の思いで、「ワーク・ライフ・バランス」を語ってほしくないものです。
いまや、介護問題も少子化問題も、メンタルダウンも、企業の経営不振や不祥事までが、ワーク・ライフ・バランスをとれば解決するのではないかという勢いです。
ワークシェアリングも、寄ってたかって、みんなでせっかくの理念を壊してしまったことを思い出します。
「ワーク・ライフ・バランス」憲章は、「仕事と生活の調和が実現した社会」を目指すと書いています。
仕事時間が多すぎて、自分の生活時間が持てない人が多い現状では、「仕事と生活の調和」はいいことだとみんな思うでしょう。
でも、どこかおかしいと思いませんか。
私にはとても違和感があるのです。
「仕事」と「生活」は対立する、別のものなのでしょうか。
20年前、会社を辞めた時、私は友人たちに、これからは「働くでもなく遊ぶでもなく、生きることにしました」と手紙を書きました。
そしてそれをかなり忠実に実現してきたつもりです。
「仕事」と「生活」を二元的に捉える。
それはまさに「近代の論理」です。
生活から切り離された「仕事」が、工業の発展を支えてきたのです。
そして、いま、それが大きな問題になっているのではないかという気がします。
ワークとライフを別のものと捉え、その時間バランスをとろうというのは、まさにこれまでの工業の発想です。
それでは問題は解決しないように思います。
そうした発想から抜け出さないと、
「仕事」は「生産」、「生活」は「消費」として捉えてしまう危険性さえあります。
つまり、経済をさらに拡大していくための「ワーク・ライフ・バランス」論になりかねないのです。
事実、昨今のワーク・ライフ・バランス議論にはそういうニュアンスを感じます。
ちょっとひねくれているのではないかといわれそうですが、
労働時間短縮の議論と同じく、発想の起点が間違っているように、私には思えます。
もちろんワーク・ライフ・バランスを語ることに意味がないというのではありません。
それはそれでいいことです。
しかしそれはとりあえずの処方であって、本当の問題はもっと奥にあるといいたいのです。
ワークとバランスさせるものは、ライフではないのではないかと思います。
ワーク、もしくはライフの捉え方に、どうも違和感があるのです。
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