■節子への挽歌402:「主人にしか見せない私はもういない」
田淵さんという方から、
私もどうしても「死」という言葉を使えません。というコメントが投稿されました。
今ちょっと姿を消してるだけのような気がしています。
よかったらコメントを読んでください。
お医者様からみれば、よくここまで・・・ということかもしれませんが、でも私達にとって別れは「唐突」の感はいなめません。私たちにとっても、全くその通りでした。
ですからもちろん「別れの会話」などしていません。
それが悔やまれた時もありましたが、いまはむしろよかったと思っています。
会話は「言葉」だけではありませんし、別れを言葉で確認しなかったおかげで、今もなお節子と一緒にいられるからです。
「主人にしか見せない私はもういない」と書かれています。
私も「節子にしか見せない私はもういない」と気づきました。
多重人格というと大げさですが、人はたくさんの自分を持っています。
相手によって、少しずつ「人格」さえも変わります。
私は相手によって対応を変えない生き方をしていますが、節子にだけは違いました。
節子に対しては100%ありのままの自分をさらけ出していました。
節子は、その「わがままな私」を素直に受け入れてくれました。
それは同時に、「ありのままの節子」を私が受け入れることでもありました。
そうした節子の存在が、いや、私たちの関係が、私の安定剤だったのかもしれません。
私の中にあるゾーエとビオスは、そういう形で、それぞれに安定していたのです。
田淵さんは、こう書いています。
私自身もあの時点でも「終わったなあ」という気持ちがしています。たしかに、「終わった」のです。
主人にしか見せない私はもういないということですから・・
半分がなくなったというよりほぼほとんどがないような頼りなさというのでしょうか。。。
半分ではなく、ほぼほとんどがないような頼りなさ、全くその通りです。
やはりゾーエがあってのビオスなのです。
節子が私の生命を輝かせてくれていたことに改めて気づきました。
みんな同じような体験をしている。
そう思うとなぜかホッとします。
田淵さん、ありがとうございました。
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コメント
どこに持っていくこともできない悲しみや寂しさの気持ちをくどくどと独り言を書いたようなものでしたのに、取り上げていただいてありがとうございました。
共感できる言葉があまりにも多かったものですからついお話をしてしまいました。
主人がこうなってから様々な慰めの言葉を沢山頂きます。優しい言葉、励ましの言葉、心配してくださる言葉・・・みんな私を気遣って言っていただく言葉です。ほんとに有難いことだと思います。でもそんな中でも「共感できる」言葉は体にす~~っと入ってきます。安易に癒しという言葉はあまり使いたくないのですが・・・・心が静まるというのでしょうか・・・そんな感じがするのです。この妻への挽歌にはそういう言葉がたくさんあるのです。ほんとにありがとうございます。
季節が動いています。昼間と朝夕の温度差が大きいので体調も崩しがちです。佐藤様もどうかご自愛くださいませ。
投稿: 田淵 マサ子 | 2008/10/08 00:19