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2008/11/03

■経済学は変質してしまいました

日本リサーチセンターが昨日発表したアンケート調査によれば、
今後1年間の暮らし向きについて69%の人が「不安を感じる」と回答したそうです。

最近、E.フロムの『希望の革命』を読み直しました。
40年ほど前に書かれた本です。
その中の一部を引用させてもらいます。

19世紀に本を書いた昔の経済学着たちが、どんどん生産をふやすという経済的方式は目的に対する手段であって、それ自体が目的ではないことを、はっきり認めていたということは、興味深い事実であって、注目に値する。適当な水準の物質的生活にひとたび到達したなら、生産力を社会の真に人間的な発展の方向に向け直すことを、彼らは希望し、期待していた。より多くの物質的商品の生産を人生の究極的、全体的目標とする考えは、彼らには無縁であった。

ジョン・スチユアート・ミルはこう書いた。「限りない富と人口の増加によって、大地から多くのものが根こそぎに奪われるために大地がその楽しさの大部分を失わなければならないとするならば、そして、この収奪がただより多くの人口、だがより優秀でもより幸福でもない人口を養うことができるためだけに行なわれるのであるならば、私は必要に迫られるずっと以前に、富と人口が増加をやめて現状を保つのに甘んじることを、子孫のために心から願うものである。資本や人口の固定した状態が、人間の向上の止まった状態を意味しないことは、言うまでもない。あらゆる種類の精神的文化、道徳的、社会的進歩の余地は相変らず残されている。成功するための技術に心を奪われなくなった時でも、生活するための技術を改良する余地は同じようにあるし、また改良される可能性ははるかに大きい。」

アルフレッド・マーシャルは言っている。「労働時間を短くすれば、多くの場合国民の利益配当が減り、賃金が下ることは事実だが、大部分の人の労働が多少減るということは、おそらく良いことだろう。ただしその場合、結果的には物質的収入が減るわけだから、もっぱら最も下らない種類の消費方法をすべて放棄することによって、それに対処し、余暇を善用することを学ばなければならない。」

経済学者は変質してしまいました。
私たちも生き方を変えてしまいました。

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