■節子への挽歌444:愛するものを失った人の世界
昨日の話を、ちょっと視点を変えてもう一度書きます。
ずっと心の底にある問題なのです。
世界は生者のためにあることはいうまでもないでしょう。
この世界にあるあらゆるものが、生者の生をささえていることは間違いありません。
にもかかわらず、愛する人を失った者にとっては、それが必ずしも受け入れられないこともあるのです。
前に「花より団子」で少し書きましたが、外から見ると去っていったように見えても、遺された者にとっては、愛するものはいつまでも隣にいます。
そこでは生者も死者もないのです。
そこから話はややこしくなります。
つまりこうです。
愛する人を見送ったものにとって、愛する人は生き続けているのです。
ですから世界は生きている自分のためと言うよりも、依然として、自分の中に生きている愛する者のためにあるのです。
愛する者のいない世界と愛する者のいる世界という、2つの世界に生きているといってもいいかもしれません。
しかも、当事者にとっては、その2つの世界が同じ世界なのです。
そこがややこしい話なのです。
しかし考えてみると、世界は人によってかなり違っているはずです。
私たちは同じ世界に生きているように見えて、実はそれぞれの世界に生きているといっていいでしょう。
自分の世界があまりにも他の人たちの世界と違ってしまうと、さまざまな生きにくさが発生しますが、多くの場合は、あまり不都合を感じないはずです。
「異邦人」のムルソーのような人は、そう多くはいないはずですが、それでも時々、その不整合から事件を起こしたりしてしまうわけです。
みなさんの近くに、もし愛する人を亡くした人がいるとしたら、おそらくその人の世界とみなさんの世界は違うのです。
その人にとっては、いまなお愛する人と一緒に生きているのです。
少なくとも、私の場合はそうです。
そのことをわかってもらえると安堵できます。
愛する者を失った人は、いつもどこかに「異邦人」の感覚を持っているのです。
それをわかってもらえるととてもうれしいです。
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