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2008/11/28

■気づかなかったことを気づくことの是非

電車の中で、近くの人のヘッドフォンから流れてくる金属音がとても気になります。
最近は以前に比べると少なくなりましたが、それでも時々体験します。
若者ではなく、それなりの年齢の人だと腹が立つこともあります。

しかし、ある本でこんな文章に出会いました。

「通勤途中、ヘッドフォンをつけて音楽なしではいられなくなった」
昨日、記事で引用させてもらった湯本さんが、
心療内科から薬をもらいながら、校長の理不尽な転勤命令と戦っていたときのことです。

全く気が付かなかったことです。
最近はメンタルダメージを受けている人が増えてきていますから、もしかしたら私が体験した人の場合もそうだったのかもしれません。
そう考えれば、少しくらいの金属音は我慢しなければいけません。
その人にとっては、外部に漏れるほどの過剰な人工音環境がなければ、精神が安定しないのでしょうから。
たぶん今度そうした状況に出会ったとしても、腹が立つことはないでしょう。

ヘッドフォンだけの話ではありません。
相手に関する知識がわずかばかり増えただけで、世界の意味が変わってきます。
お互いに理解しあうことがいかに大切かを教えてくれます。
相手のことを少しだけ思いやる気持ちを持てば、世界は違って見えてくる。
言い換えれば寛容になれるというわけです。
そうなれば、きっと生きやすくなるでしょう。

しかし、その一方で、そうなってすべての行為を受け入れてしまうと、社会はどうなってしまうのだろうか、という不安もあります。
極端な例で言えば、人を殺すことさえ、当事者にとっては「それなりの事情」があることになります。
しかし、そこまで寛容になるわけにはいきません。

どこで折り合いをつければいいのでしょうか。

そんなことを考えていくと、やはりヘッドフォンから漏れ出してくる金属音には、またイライラしてしまいそうです。
人生は難しいものです。

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