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2008/11/22

■節子への挽歌448:「社会のため」と「自然な暮らし」

このブログの挽歌編に、こんなコメントをいただきました。

朝夕寒くなってきましたね。窓から見える桜の葉っぱが赤や黄色になってきれいです。拾ってきて主人の写真の前に飾りました。
昨日、このコメントを思い出して、箱根から紅葉した落ち葉を拾ってきました。
もう1泊する予定だったのですが、昨夜帰宅し、節子の位牌の前に報告し、供えました。

そこまではよかったのですが、今朝、起きて挨拶に行ったら、そのもみじ葉は無残にも丸まってしまっていました。
節子はいつも綺麗な落ち葉をいろんな場所にそっと置いたりしていたはずなのですが、どうしてこんなになってしまったのでしょうか。
娘に聞いたら、押し花にしてからでないとダメだよというのです。
常識が欠落している自分に、またまた出会ってしまった感じです。

それで落ち葉を少し水に浸して蘇生させ、きちんと処置した上で、また節子に供えようと思います。
こうした「常識」が、たぶん暮らしの常識なのでしょう。

私は節子に比べると、書籍に書いてあるような知識は数倍たくさん持っていました。
何を訊いても知らないことがないと節子が思っていた時もありました。
しかし、それがなんだというのでしょうか。
本当に大切な知識は、そんなことではない。
それに気づかせてくれたのは、節子です。
もっとも、私がそれに気づいたのは結婚して20年ほどたってからです。
いや、もしかしたら節子もそうだったかもしれません。

企業に勤めて、それも戦略スタッフとして仕事をしていた時には、落ち葉の保存策よりも商品開発や市場開拓に関する知識や地球環境に関する知識などのほうが重要だと思っていました。
新しい視点や概念を企業に取りこむことこそ、大切だと思っていた時期もあります。

しかし、もっと大切なのは、そうした知識を自らの暮らしにつなげていくことです。
理屈だけで生きていくことはできません。
環境問題を知っているだけでは意味がありませんし、環境負荷を与える行動をすべて禁じたら生きていけません。
そういうことを「心身的」に気づかせてくれたのが節子なのです。
そこから私の生き方は変わりだしたように思います。

私が「社会のため」などという言葉を使わなくなったのも、その頃からです。
自らの暮らしそのものが社会をつくっているということに気づけば、自分と社会を切り離すような「社会のため」や「社会貢献」などという発想はなくなります。
自分のために誠実に生きていれば、それが必ず社会のあり様を変えていきます。
そう考え出したのです。

節子は「社会のため」などとは決して言いませんでしたが、不正や不作為が嫌いでした。
自宅から離れた電信柱のまわりでさえ、花がなければ花を植え、水をやりに出かけていました。
近くの子どもが悪さをすれば注意しました。
しかし決して「社会のため」などとは思っておらず、それが節子にとっての「自然の暮らし」だったのです。

こんなことを書くと、節子がとても善人だったように聞こえるかもしれませんが、節子は時にあまり感心できないこともやってました。
ハイキングに行って、山道で実生の小さな樹の芽があるとこっそり抜いてしまったり、きれいな花の木の枝をこっそり持ち帰ったりしたこともあります。
そうした花木がわが家の庭にはいくつかあります。
「自然の暮らし」には、そうしたちょっと怒られそうなこともあるのです。
私は当初、やめたほうがいいと注意していましたが、そのうちにそれを手助けし、今誰も見ていないよ、などと見張役を引き受けるようになってしまいました。
まあ、自然の暮らしには、そうした「悪事」もあるのですが。

箱根から持ち帰った落ち葉は、水の中で復活しました。
問題はこれからですが、うまくいくでしょうか。
自然の暮らしは、時間と汗をかけなければいけません。
本を読んだり、誰かの話を聞いたら身につくわけではありません。
心身を動かすことで身についていくのです。
節子がいた時にもっともっとこうした暮らしをしておけばよかったと思えてなりません。

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