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2008/11/02

■節子への挽歌428:思い出の中の節子との世界は生きている

昨日、娘のユカの関係のことを書きました。
間違っていると悪いので、ユカに読んでもらいましたが、
そのついでに他の記事も読んで、間違いを指摘してくれました。
それは、手賀沼マラソンに関わる記事です。

私には、節子がつくった旗をもって節子と一緒に応援にいった記憶があります。
その旗のイメージも鮮明に残っています。
ですから、そう書いたのですが、ユカはお母さんは一緒ではなかったというのです。
そういう記憶が定かでない場合、私には確認することがかなりできるのです。
私の生活のかなりの部分をホームページ(CWSコモンズ)で公開しているからです。
確認のために、その日の記事を読み直してみました。
たしかに節子は応援に行っていませんでした。
週間報告にはこう書いてありました。

応援バナーをつくると張り切っていた女房がどうしても応援できなくなくなってしまいました。
それで娘たちがかりだされました。

そういえば、娘たちと3人で応援に行ったことを思い出しました。
しかし、なぜ節子は応援に行けなかったのでしょうか。
体調が悪くなっていたのでしょうか。
もしそうであれば、たぶん私も応援には行かずに、節子と一緒にいたはずです。
それでまた娘に訊いてみました。
娘がいうには、たしかお母さんは友達と一緒に急に旅行に行ったというのです。
そういえば、そんな気もします。
節子は、誰かと旅行にいけるほどに元気になっていたのです。

それにしても、記憶というのはあやふやなものです。
ユカから指摘されるまで、私の思い出の中には節子が旗を振っているイメージまであったのです。
このブログに節子との思い出を時々書いていますが、それらは果たして正確なのだろうかと気になってきました。

節子と私との過去の世界は私の頭の中にしかありません。
その世界はたぶん私の思いで、少しずつ変化しているのでしょうね。
自分に都合よく無意識に変えているのかもしれません。
「思い出」というのは過去のものではなく、いま現在に存在するものですから、変化するのは当然です。
5年前のことを今日書いておいたものと、1年後に同じことを書いたものとは、微妙に変化しているはずです。

つまり、「思い出」は生きた存在であり、日々、変化しているのです。
過去の節子も私も、私の思い出の世界では変化している。
言い換えれば、思い出の中の節子は生きているといってもいいでしょう。

愛する子どもを失った親の気持ちが、少しだけわかったような気がしてきました。
同じように、私の中にも、私と一緒に歳をとっていく節子がいるわけです。
世界をシェアしながら、歳をとっていくことの喜びを感じられればいいのですが。
まだそこまでには至っていませんが、そんなことを少し理解できてきたような気がします。

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