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2008/11/10

■節子への挽歌436:真の癒しを得るための懺悔と赦し

真の癒しを得るためには、懺悔と赦し(ゆるし)が必要だと、ある本に書かれていました。
そして、赦すとは、事件を忘れ、それを帳消しにし、苦しみのもとを簡単に解き放ってしまうことではなく、その事件の呪縛から自らを解放することだというのです。
最近の自分自身のことを考えると、とてもよくわかります。
しかし、それは、そう簡単なことではありません。
その本に、ある神学者が話したことが書いてありました。

満足のいく心境になるには、あらゆる好ましくないことを何もかも口から吐き出してしまうことです。
傍らに立つ牧師がこう言っている姿が見えます。
「もうすべてを打ち明けましたか、ほかにはないですか」と。
そして、しつかりと受けとめられる方法でそれを吐き出してしまえば、本当に新たな気持ちで自由に歩き出していけることに気がつきます。
ところが、私たちが嘆きもせず、神の御座に話を打ち明けなければ、残りの人生の中でずっとそのまま引きずって生きていかなければなりません。
私は仏教徒であり、キリスト教徒ではありませんから、キリスト教の意味での神とは無縁ですが、神という言葉を、日本の文化の中での神に置き換えれば、とても納得できます。
この人は、「痛みを感じることであり、その傷を表にさらした方がよい」と言っていますが、とても共感できます。

問題は、耳を傾けてくれる人がいるかどうかです。
相手がいなければ、思いをさらしだすことは難しいです。
私の場合は、読む人がいようがいまいが、このブログに書くことで思いをさらけ出しています。
この挽歌を書くことで、気を鎮められます。
しかしそれだけでは十分ではありません。
時々、周りの誰かに思いをぶちあけたくなりますが、多くの人はそれを聴くのを好みません。
当然のことです。
でも先日のTYさんのように、「話し合え、聴き合える」人が現われます。
それで私の場合は、辛うじて破綻を封じているわけです。

日本の文化における神は「自然」です。
自然に向かって、思い切り懺悔し赦しをえるのもいいですが、
迷惑がられるかもしれませんが、周りの人に、自分の思いを吐き出してしまうのも効果的です。
吐き出していると、いつかきっと、「話し合え、聴き合える」人が現われてくるように思うのです。

周りに「愛する人を失った人」がもしいたら、ぜひ話を聴いてやってください。
同情や助言は禁物です。
ただ聴いてやってください。牧師のように。
みんな聴いてほしいのですから。
話を聴くこと、それが「支え合う生き方」ではないかと思っています。

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