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2008/11/13

■ブログから見えるネット社会の病理

このブログに関する限りでは、田母神事件はようやく山を越しました。
テレビで話題になった直後からアクセスが急増し、コメントや個人宛のメールもかなりありました。
毎日のアクセスの半分くらいが田母神関係でした。
コメントもありましたが、その多くは偽装アドレスです。
一応、偽装ではないと思われるものは掲載しましたが、ほとんどは一度だけの「ひやかし」です。
コメントを読んでもらえればわかりますが、私以上に「鬱積」しているようです。
しかし、こうした事件が起こるとネット検索する人が増えているのは不気味です。

気分を悪くするようなコメントも少なくありません。
もちろん考えが違うから不快になるということではありません。
いがみ合うことの寂しさです。
私が批判しているのは、権力をもつ強い「公的な存在」や制度や組織です。
個人を批判することもありますが、それはその個人の立場を問題にしています。
しかし、そのことはなかなかわかってもらえません。
若い知人から、佐藤さんのブログは「悪者」をつくる二元論だと批判されたこともあります。
信頼していた若者だったので、その時はとても残念でした。

私のようなマイナーなブログでさえこうなのですから、アクセス数の多いメジャーなブログは大変でしょうね。
どうやって対応しているのでしょうか。
私の友人の中には、その煩わしさを懸念してブログをやらないといっている人も数名いますが、その気持ちはよくわかります。
見たくもない人間の卑しさ(自分の卑しさも含めてですが)を見せられます。

子どもたちの世界でもこうしたブログ的なことが広がっているわけですが、そのことの意味をもっと真剣に考えなければいけないと思います。
やっている人だけでなく、そこに反応する子どもたちも含めて、非常に大きな影響を与えているはずです。
学校教育よりも大きな「教育効果(マイナスの効果も含めてです)」を発揮しているはずです。

昨夜、テレビで韓国や中国におけるネット社会の病魔を報道していました。
韓国では自殺者が、中国ではネット中毒が発生しているそうです。
いずれもとてもよくわかります。
私もその周辺にいたことがあるからです。
インターネットを使いこなすには、まだまだたくさんの犠牲を払わなければいけないのかもしれません。

ちなみに、不快なことも多いですが、気づかされることも少なくありません。
自分の意識や性格についても、思い知らされることがあります。
人の卑しさと弱さが、この頃よくわかるようになりました。
これはブログで自分を露出したおかげです。
それに、失った友人は一人ですが、得た友人はたくさんいます。
だからブログはやめないのです。

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