■節子への挽歌435:「なぜ自分の身に起こったのか」
節子
昨日はあなたのことを思い出して、辛い1日でした。
司法関係の本を読んでいたら、「犯罪被害者も、癌患者と同様に答えを欲しがっている」という文章が出てきました。
同様に欲しがっている答とは、「なぜ自分の身に起こったのか。それを防ぐために何ができたのだろうか」という疑問です。
著者は、「犯罪は、癌のように、(生活上の)秩序の感覚と価値観を覆してしまう」とも書いています。
全くその通りです。
ただ、私には「価値観」への思いが十分ではなかったのが悔やまれます。
私の価値観が根本から覆されたのは、節子を見送った後でした。
なんと鈍感なことでしょうか。
自分では生活を変え、考え方も変えたつもりでしたが、今から思えば中途半端でした。
それが悔やまれて悔やまれて仕方ないのです。
節子は、がんの手術をし、そこからの回復が他の人と違うことに気づいてから、人が変わったような気がします。
いささか身びいきに言えば、「聖人」になったようでした。
吉祥天のことを書きましたが、時々、そういう実感を持ったことも事実です。
節子の場合は、とてもいい方向に変わったように思います。
そして不思議なのですが、節子はその時から「なぜ自分の身に起こったのか」というようなことを一切、言わなくなりました。
むしろ、これが自分の定めなのだと淡々と語りながら、もう一度、誕生日を迎えられるとうれしいね、と話していました。
私たちは、そんな節子の気持ちをうまく受け止められずに、治るんだから大丈夫だよ、などと対応していましたが、節子はもう知っていたのかもしれません。
心が静まると、きっと先は見えてくるのでしょう。
今はそんな気がしています。
この本を読んだとき、私はすぐに、愛する者を失った人も同じだと思いました。
「なぜ自分の身に起こったのか。それを防ぐために何ができたのだろうか」という疑問は、たぶん、愛する人を失った人ならみんな思うことでしょう。
節子は、この難題をいとも簡単に克服したようですが、私はまだその呪縛に囚われたままです。
この問題から解放されない限り、私の精神は安定しないでしょうが、そのためにはもっともっと節子の世界を共有しなければいけないのだろうと思っています。
そう思ったら、いろいろなことがどっと思い出されてしまい、気が沈んでいました。
今日は元気になるでしょう。
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