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2008/11/06

■節子への挽歌432:心配りする人のいないさびしさ

急に寒くなりました。
節子がいた頃は、寒くなるとタンスの中はいつの間にか衣替えされており、
知らないうちに寝具も替わっていました。
いまは自分でやらなければいけません。
そんな小さなことが、私には一番、身に応えます。
私が快適にできるように、節子はいろいろなところで心配りしてくれていたことがよくわかるからです。

私も、それなりに節子に対して心配りしていました。
節子が病気になってからはもちろんですが、
それ以前も節子をとても大切に思っていましたから、
節子への心配りは私には大事なことでした。
しかし、それが節子に喜んでもらえていたかどうかは、いささか疑問です。
今から思うと、心配りを超えて、親切の押し付けだったことも少なくないような気がします。
なんとなく前々から私はそう思ってはいたのですが、
私の勝手な「心配り」を迷惑そうな顔もせずに、節子は受け入れてくれていたのです。
ストライクゾーンの心配りは、私にはできなかったような気がします。
それが修らしいという、節子の言葉が聞こえるようです。

しかし、そうした「心配りする相手」がいないことのさびしさは、予想以上に大きいものです。
人を愛するとは、心配りの喜びを手に入れることかもしれません。
心配りされないさびしさよりも、心配りする人のいないことのさびしさが大きいことを、節子がいなくなって、初めて知りました。
節子がしてくれていた心配りに気づくたびに、なぜもっと節子への心配りをしなかったのか、悔やまれて仕方がありません。

伴侶である必要はありませんが、心配りしあう人がいることは、人生を幸せにします。
節子がいなくなって初めてそれがわかりました。
しかし、「心配りすること」は簡単ですが、「心配りしあうこと」は相手がいることですから、そう簡単ではありません。
そんなことさえも、節子がいなくなってやっと気づいたのです。

今度、心配りしあう生き方を話し合うようなサロンを始める予定です。
時評編のほうに近日中に案内を出す予定です。
よかったら参加してください。

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