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2008/11/14

■節子への挽歌440:心の平安を創りだす人

節子
最近は、いやなことがあっても話す相手がいません。
そこで今日は、久しぶりに節子に愚痴を聴いてもらいたいと思います。

挽歌と並行して、このブログに時評を書いています。
先日、そこにいま話題になっている「田母神事件」のことを書きました。
4月にも書いたことがあるのですが、田母神論文が話題になりだした途端に、その記事へのアクセスが急増しました。
その関係で、以来、毎日1000件ほどのアクセスがあるようになりました。
コメントの投稿やメールも来るようになりました。
ほとんどが嫌がらせ的な内容です。
このブログではかなり主観や感情を露出していますから、そうなることは予想されていることですが、それでも時々めげてしまいます。
気持ちの平安が乱されてしまいます。

私が気分的な振れがかなり大きいことは、節子はよく知ってくれていました。
まあ40年も一緒に暮らしていると、相手の気持ちはわかってきます。
こういう話をしたら、こう反応してくるだろうなということがお互いにわかっています。
ですから逆に、わかっている節子の反応を期待して、愚痴を言うことができたわけです。
節子もまた、私の愚痴の後ろにある気持ちを察してくれ、それに反応してくれました。
それで私としては、心の平安が保たれたことが何回もあります。
節子は私の心の平安を創りだす人だったのです。

ところで、うれしい話も最近は多いのです。
コムケア活動を少しずつ再開しだしていますが、それを知っていろんな人がエールをくれます。
活動再開を待っていてくれた人がいるとは、とてもうれしいことです。
ほかにもちょっとうれしい話が最近は時々起こります。
しかし誰に話したらいいのでしょうか。
うれしいのは、たぶん私だけで、当然ながら娘たちはあんまりうれしがりません。
私の価値判断基準はかなり世間離れしているからかもしれませんが、そのうれしさを分かち合う人がいないのは、逆にさびしさが募ります。
この意味でも、節子は私の心の平安を創りだす人だったのです。
自分のことのように喜んでくれたからです。

その人がいないと、私の心の平安はなかなか得られないのです。
喜怒哀楽は、やはり分かち合う人がいて、完成することにやっと気づきました。

もしそうであれば、昨今の人のつながり方はやはりどこか間違っているような気がしますが、これは余計な蛇足ですね。
でもいつか、時評編で書きたいと思います。

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