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2008/11/17

■節子への挽歌443:節子がいなくなっても何も変わらない不思議

節子
節子がいなくなってからも、不思議なことに、世界は節子がいたときと同じように動いています。
駅まで行く途中にある畳屋の親子はいつも一緒に畳をつくっていますし、
近くの手賀沼公園では家族連れが楽しそうに遊んでいます。
節子も知っている散歩コンビの2人ずれも今も変わらずハケの道を歩いていますし、
スーパーのライフは相変わらずにぎわっています。
節子がいなくなった当初は、そのことがどうも納得できませんでした。
節子がいなくなったのに、何で世界の動きは変わらないのだ、とまあそんな非常識なことさえ考えました。

ひとりの個人がいなくなっても、たくさんの人の集まりである社会にとってはほとんど影響はありません。
家族を単位に考えると、たとえばわが家では4人家族の一人がいなくなるということは、
1/4のメンバーがいなくなることですから、大きな変化が起きますが、
社会の範囲を広げるほどにその影響度は低下し、ついには無視できるほどになるわけです。
もし普通の人の死のたびに、社会が揺らいでいたらそれこそ大変です。

そんなことは重々理解しているのですが、でもなんだか寂しい気もするのです。
私が死んでも、同じように社会は何も変わらないでしょう。
毎日歩いているまちの風景も変わらないでしょうし、ほとんどの人はそんなことなど知りもせずにいるでしょう。
以前、自分が死んだ後の未来のまちを歩いた(ような気がした)ことが2回ありますが
その時もまちの風景は全く同じでした。

私と世界は非対称なのです。
私にとっての世界は、私の死と同時になくなるでしょうが、
世界にとっての私はいようがいまいが変わらないのです。
しかし、すべての人がそう思い出したら、社会は存在しなくなります。
ほとんど無視できる要素がたくさん集まると意味のあるものになる、その典型的なものが社会なのかもしれません。

しかし、華厳経のインドラの網やホロニックな世界観は、世界と個人は重なっていると語っています。
すべての個人が、世界を再帰的にかたちづくっているというのです。
いいかえれば、すべての「いのち」はつながっているということになります。
ですから誰か一人の死は、必ず世界に影響を与えます。
その意味でも、世界は時々刻々変化しているわけです。

節子がいた世界と節子のいなくなった世界とは、変化しているはずです。
どこが一体変化したのか。
それが見えないのが、やはりちょっと寂しい気がします。

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