■レストラティブ・ジャスティス:修復的司法もしくは共創的正義
昨日、記事の中でレストラティブ・ジャスティス(Restorative Justice:RJ)の言葉を出しながら、その意味をきちんと書くのを忘れてしまいました。
多くの人にとっては、たぶん聴きなれない言葉でしょうから、少し説明しておくことにしました。
昨日書いたように、この概念は司法の世界で議論されだしました。
裁判員制度などとは違って、司法のパラダイムの変革につながる概念です。
簡単にいえば、事件や紛争を解決するにあたって、国家的な制裁に頼らずに、関係当事者同士の話し合いを基本にするという考え方です。
なんだ、示談のことかと思われそうですが、示談もその一例といってもいいでしょう。
しかし、金銭的な損害賠償だけでなく、むしろ話し合いの過程で、関係者がしっかりと向き合うことで、相互に赦しや癒しを生み出し、事件からの解放(あるいは事件が破壊した関係性の修復)を可能にすることを目指すのが、修復的司法なのです。
被告原告といった「対立」構造をつくるのではなく、一緒になって困難を克服していこうということです。
現在の裁判の主役は、国家です。
刑事事件の場合、裁判の現場には被害者は主体的には参加できません。
最近、少しずつ変わってきましたが、それが近代国家の裁判(司法)のパラダイムなのです。
司法こそ、暴力を独占した国家を支える仕組みといってもいいかもしれません。
それに対して、修復的司法では、国家は主体的な立場ではなく、後見的な立場へと後退し、主体は被害者と加害者になります。多くの場合、コミュニティにも主体性が認められます。
但し、修復的司法における「コミュニティ」の立場は、現在の枠組みでの裁く主体としての「国家」とは全く違います。
こういってもいいでしょう。
これまでの裁判は国家秩序維持のためのものだったが、修復的司法は生活者の快適な関係性を高めるためのもの。
そこでは、司法や裁判のパラダイムが変わります。
それこそが「司法改革」だろうと、私は考えています。
ですから最近の司法改革にはあまり感動しないわけです。
重要なことは、レストラティブ・ジャスティスの概念の根底には、「正義」の捉え方の哲学があるということです。
ですから、私は「修復的司法」ではなく、「共創的正義」と受け止めたいわけです。
「正義」を語りだしたら、必ずといっていいほど、落し穴に陥ってしまうでしょう。
大上段に正義を語る人は信頼できないとしても、正義を語り合うことの意義は大きいはずです。
「コモンズの回復」とは、そうした「共創的正義」の実現と言ってもいいかもしれません。
いずれにしろ、レストラティブ・ジャスティスの発想で考えると、世間のさまざまな動きが少し違って見えてくるでしょう。
このブログ時評の根底にあるのは、レストラティブ・ジャスティスの考えなのです。
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