■節子への挽歌449:「男前」に生きる
節子
あるブログで、こんな文章に出会いました。
「男前」という言葉があるが、一般的には「顔立ちが良い」とか「スタイルがいい」とか、見栄えを評した言葉と解釈されているが、俺の解釈は違う。とても共感しました。
「男が、男らしさを前面に押し出す」のが「男前」の意味だと受け止めている。
男は、女より女々しいから殊更に「男前」を意識せざるを得ないのではないか?
そして、「男前」を貫くため、自分を鼓舞するために「男の修行」とか、「義理と情け」などと言う言葉に酔うのかも知れない。
男として産まれた限り、男を前面に押し出して生きる姿勢を貫く。
それが「男前」の意味だと思う。
人はどうか知らないが、少なくとも俺はそうだ。
特に共感できるのが、「男は、女より女々しいから」というところです。
これを書いた人(daxさん)は、5年前まで「現役ヤクザ」だったそうです。
私のホームページが、この人の目にとまって、私にメールをくれました。
そのおかげで、私はこの人のブログ(「手垢のついたメモ帳」)に出会いました。
私にはとても遠い世界の話のようでもあり、でもすぐ隣にあるような気もする世界の話です。
引き込まれるように読んでいるうちに、この文章に出会ったのです。
全く理由がわからないのですが、涙が出てきてしまいました。
daxさんが言うように、実に男は女々しいのです。
ブログによると、daxさんは「男前」な生き方をしています。
その生き方は、すさまじいほど「男前」です。
しかし、私は「男前」の生き方をせずに、地のままの生き方をしてきました。
人に笑われようと、自らに正直に生きることが、私の生き方です。
daxさんのような「男前」にはなれそうもありません。
節子がいない今は、なおさら、メソメソと嘆き悲しみ、気力を失っています。
しかし、daxさん的にいえば、「男らしく」メソメソしているわけですから、
これもある種の「男前」といえないこともありません。
しかし、なぜかdaxさんのブログには自分と共通のものを感じるのです。
もちろん言動は全くといっていいほど違います。
ブログには「指をつめる」話が出てきますが、そこを読んだときは「嘔吐」する気分になりました。
私は「血」を見ただけで、失神するほど、気が弱いのです。
にもかかわらず、なぜ共感するのか。
それは、daxさんがとても誠実に生きているのが伝わってくるからです。
私ももっと誠実に生きなければ、と改めて反省しました。
節子
あの茂さんのおかげで、また世界が広がりました。
私たちをつなげてくれたのは、東尋坊の茂さんのテレビ報道番組です。
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