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2008/11/18

■「国を守る」ということ

田母神事件に関して、いろんな人からコメントやメールをもらいましたが、そこでよく出てきた言葉に「国を守る」とうのがありました。
国という言葉は多義的ですから、「国を守る」ということも実に多義的です。

田母神さんは、国家(政府)に反逆することが「国を守ること」だと考えたわけですが、彼が守ろうとした「国家」とは何だったのでしょうか。
政府が考えている国家とは明らかに違います。
では、彼を罷免した政府が守ろうとしたのは「国家」なのでしょうか、それとも自らの政権なのでしょうか。

「国を守る」ために憲法9条を変えようとする人たちがいる一方で、「国を守る」ために憲法9条を守ろうとする人たちがいます。
そうした違いが、単なる方法論の違いであって、目指すべき目的が同じなのであれば、事はそう難しくはありません。
お互いの方法論の長短を議論し、お互いに連携することも可能だからです。

しかし、どうもそうではないのです。
「国を守る」と言う言葉は、実は全く正反対の意味を込めることが可能な言葉なのです。
守るべき「国」の違いで内乱が起きるように、国とは人や立場によって全く違うものになります。
そこに問題の悩ましさがあります。

「国」が政権なのか、秩序なのか、国土なのか、国民なのか、文化なのかという問題もあります。
国民と言う場合も、実は様々な捉え方があります。
金持ちなのか、支配階層なのか、庶民まで入るのか、年寄りや子どもはどうなのか。
国を発展させるために、勝ち組みと負け組みを生み出した体制の中では、たぶん守るべき対象には「負け組み」は入らないでしょうが、イラク戦争への米国戦士に象徴的に現われているように、「負け組み」こそが戦場に狩り出されるという皮肉もあります。
このあたりをあいまいにして愛国心や国防問題を語ることの恐ろしさを、私たちは認識すべきではないかと思います。
前提が違っていると、「国を守る」ことが「国を滅ぼす」ことになるのです。

「社会のために」などと自分からいう人が信頼できないのと同じ理由で、
私は「国を守る」などと軽々に発言する人を信頼できません。
国などといわずに、もっと自分の言葉でしっかりと守るべき内容を語ってほしいと思います。

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コメント

佐藤さん、こんにちは。
もうすぐお会いできるのだと思うと、ちょっと不思議な感覚です。

ところで最近仕事の席で、田母神氏を熱烈に礼賛する方と直接お話をする機会がありました。
お話をすると言っても、ほとんど私は聞き役に徹しておりましたが。
自分の考えや意見を差し挟まずに先方の話を聞いていたのには訳があります。
なぜなら、彼がどうして田母神氏のような人物を支持するような考え方に至ったのかという
その思考プロセスにどんな背景があり、影響を与えてきたのかという点に関心があったからです。
残念ながら初対面で時間も限られていたので、その中でその人を判断するようなことはしたくないですが、
その中で見えてきたことがいくつかありました。
彼は見たところ、社会的地位もあり、一見大変良識もありそうな40代半ば程の男性でした。
近現代史、特に戦争へ至るまでの歴史はよく学んでいらっしゃるようでした。
その語り口は大変熱心で、今の日本社会について真剣に考えておられ、また憂慮されているようでもありました。
アメリカに盲従する必要はないという点では大変共感しましたが、
しかし、その主張する方向性は私とは全く正反対にあるとさえ思えるものもありました。
一番決定的に異なる点は、「人類の一体性」の感覚だと思いました。
私は自分に起きた内的な体験からそこに重きを置くことができるのですが、
彼の場合はそうではないようでした。(他国の人々を蔑むような発言をしていたので・・・)
でもそんな考え方や価値観の異なる人の話を直接聞くことができてとても幸運だったと思います。
是非また会って話の続きを聞きたいと思っているのですが。

ところで最近そのようなことを考えていたら、下記のような文章に目が留まり、他のMLでも紹介させてもらいました。
「思考」の役割について。とても深い洞察を与えてくれると思ったからです。
自分の言葉ではなくて恐縮ですが、ちょっと紹介させてください。
佐藤さん以外の方も読んでくださるかもしれないので。

これを読むと“頭が良すぎ”ても世界から争い事はなくせなさそうです。
「感情」でもなく「思考」でもない。
その先にあるものをクリシュナムルティは示唆しているようです。
それを知るには「見ること」であると彼は言っています。
やってみる価値がありそうな気がしませんか?

『制御(control)は分離を含み、制御者と制御されるものを含んでいる。
この分離こそ、すべての分離がそうであるように、行動のなかに葛藤や歪みをもたらす。
この分裂・断片化は思考の仕業であり、一つの断片が他の部分を制御しようとしている。
こんな断片の一つを制御者、あるいはあなたの好きなどんな名前をつけて呼ぶがいい。
この分離は人工的で有害だ。実際、制御者は制御されるものだ。
思考はまさにその本性からして断片的であり、これが混乱や悲しみを引き起こす。
思考が世界を分断し、国家やイデオロギーや宗派や、その大小といったものをつくってきた。
思考は、脳に貯えられた記憶、経験、知識の反応にすぎない。
それが効果的に正常に機能できるのは、安全で秩序のなかにあるときに限られる。
肉体の生存を保つために、思考はあらゆる危険から自身を保護しなければならない。
外部的に生き残ることの必要性は理解しやすいが、心理的に生き残ることと、
思考がつくりあげたイメージが生き残ること、これはまったく別の問題だ。
内なるのも、信仰、イデオロギー、神々、国家などが生き残るために、
さまざまな結論といったものが本質的なものに化してしまう。
これが語られざる戦争、つまり暴力や悲しみをもたらす。
さまざまなイメージをともなった内なるものが生き残るよう望むこと、
この欲望は病気であり、不調和である。思考は不調和だ。
あらゆるイメージ、イデオロギーの本質は自己矛盾で破壊的だ。
思考は、その技術的な業績は別として、外部的にも内部的にも混乱と快楽をもたらしてきた。
その快楽たるや、しばらくすると苦悩となっていくものだ。
このすべてをあなたの日々の暮らしのなかで読み取ること、思考の動きに耳を澄ませ、
かつ見ること、それが瞑想のもたらす変革である。
この変革は<私>がより大きな<私>になっていくことではなく、意識の内容の変革である。
意識はその内容だ。
世界の意識はあなたの意識なのだ。
あなたは世界で、世界はあなたなのだ。
瞑想とは、思考とその活動を完全に変革されることだ。調和は思考の果実ではない。
それは全体を知覚することから来る。』

■J・クリシュナムルティ著/宮内勝典訳 『クリシュナムルティの日記』より

投稿: 渡邉りよ | 2008/11/18 12:10

渡邉さん
ありがとうございます。

クリシュナムルティの「あるがままの全体的知覚」への呼びかけは、私も共感しています。
そう心がけていますが、なかなか小賢しい知識から抜け出られずにいます。
困ったものです。

今度、支え合う暮らしを考えるサロンに来てくださるのですね。
楽しみにしています。

投稿: 佐藤修 | 2008/11/20 07:16

佐藤さん
コメントをありがとうございます。

なんだか立場も弁えず、偉そうな投稿をしてしまったかも・・・とまた少し後悔しています。
クリシュナムルティの言葉は確かに素晴らしく、私にとっては啓発されるものですが、
それはやはり与えられた「思考力」を縦横無尽に駆使していればこそ、役に立つものであろうと思われます。
「自分で考える」ことを十分に日常的に行いつつ、「思考の先にあるもの」をも志向できたら、光が見えてくるでしょうか。
もちろん「思考力」が未発達な私には「豚に真珠」と言われても否定しませんが。

これまでに何度か、感情や思いと言った目に見えないものが‘茨の蔓’となって心を締め上げ、
まるで体から血が滲むのではないかと思われるような精神的苦痛を経験したことがあります。
(最近も実際に胃カメラを飲んで胃から血が出ていることがわかりましたが・・・)
その度に、まるで「生きること」へのエネルギー補給が断たれ、生への衝動や精気というものが
‘枯渇’や‘窒息’へ向かう様を観察してきました。
そのような状態へ落ち込む要因は、姿形を変えてさまざまあることまでは突き止めましたが、
例えば愛着ある人との別れの時もそうでした。
頭の中では別れは幻想であると主張するのですが、感情の動きはしがみつこうとします。
そしてその中で葛藤が生じ七転八倒し消耗していきました。

これは外からはあまり見えない部分でもあると思います。
でも確実に自分の中では心が病んでいたのです。(エネルギーの誤用の結果とも言えます・・・)
世の中にはもっと辛い苦しみや悲しみが存在するはずですが、当事者にとっては、
誠に自分の存在を消し去ってしまいたいほどの苦痛と否定に圧倒されてしまうのです。

しかしそれは嵐のように吹き荒れては過ぎ去り、津波のように襲っては引いていくのです。
いつもそうでした。そしていつしか、これは果たしてリアルな現実だろうか?と疑うようになったのです。
私はそうした状態を誰かに話したり、相談したり、ということがとても苦手なタイプで、
いつも1人で鬱々悶々とし、のたうち回って凌いできたのですが、
その度に、そんな取るに足らない金平糖のような自分にさえも、
‘宇宙’が共感し、大量の涙と共に受け止めてくれました。
そして癒されました。
私もいつかはそのような‘癒す存在’になっていきたいと思いますけれど、
まだまだゴールは遙か彼方にありそうです。

これらの苦しみを仏教で言うところの「執着」や「煩悩」と一言で片付けてしまうのは、
多少の苦悩を知るものとしては気が退けます。
でもそこから解放され、自由になる手段を多くの智恵ある先達方が示してくださっているので、
人類は幸福とも思います。
そうであるので、その助言に耳を傾け、試してみさえすれば、
どの人にも新たな自由で解放された意識の領域が準備されているということに信を持っています。
万が一身近な人からの共感や受容が得られなくても、たとえ肉体的な死は免れなかったとしても、
常に‘宇宙’は人や自然、何かの事象を通して完全にサポートしてくれますから。
‘宇宙’が存在していることで、私たち一人一人の存在もまた保証されていると思っています。
見える世界、見えない世界を含めて。

私にはこのブログを書くことで、佐藤さんが自らのケアマインドの質を高めていくよう
さらに奮闘されていらっしゃるように見えます。
そんな機会を与えてくださった伴侶である節子様に感謝するということを通して。
すごく高尚なことにチャレンジしていらっしゃるなぁと、改めて尊敬いたします。
だから、コムケアのサロンに参加させていただけることがとても楽しみなのです。
コムケアの活動に大変関心を持っています。


投稿: 渡邉りよ | 2008/11/20 11:21

国家とは「①国籍を持つ国民がいる事 ②国民の住む領土 ③国民が自国の方針を決めることの出来る主権を持つ」ことからなっております。このことを自覚することが「国家認識を持つ」ことになりす。
 前頭葉の大きな人類は弱い国があるとその領土を奪い、国民の持つ主権を奪おうとします。それは21世紀になっても変わりません。
 田母神閣下が「国を守る」と言うことは国家認識を持ち強い国になることを言ってことになります。強い国には手出しは致しません。

投稿: 古川典保 | 2013/02/19 20:12

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