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2008/11/26

■糾弾よりも創りだすことへ

このブログの時評編を読んでくださっている方は、私が批判や糾弾ばかりしていることに辟易されているかもしません。
いつもそうならないように心がけていますが、結果的には単なる批判や糾弾の記事が多いかもしれません。
反省しなければいけません。

そういう私がこんなことをいうのはおかしいかもしれませんが、どうも世の中、糾弾することにエネルギーを向ける人が多すぎるような気がしています。
自分の言動を顧みて、なかなか書けずにいたのですが、自戒の意味も含めて、やはり書いておこうと思います。

平和のメーリングリストにいくつか参加していますが、「抗議」「糾弾」などの呼びかけが少なくありません。
共感できるものには私も賛同し、署名したり行動に参加したりしていましたが、最近どうも参加する気力を失いだしました。
気力の衰えと言ってしまえば、それまでなのですが、そうした一方的な情報発信にいささかの疑問を持ち出してしまったのです。
現場を確認もせずに、間接情報で抗議や糾弾に乗ってしまうことへの危惧もあります。

最近のテレビの報道番組は、「抗議」「糾弾」「批判」「問題提起」が大流行です。
年金問題にしろ天下り問題にしろ、何度取り上げられたことでしょうか。
しかし、何も変わっていないのが現状です。
つまり、「抗議」や「糾弾」や「批判」が、目的化しているといってもいいでしょう。
テレビには大きな力がありますから、もし本気でやる気ならば、もう少し違った展開が考えられるはずです。
「ほっとけない」などと声高に叫びながら、結果的にはほっておいているわけです。

それに論調があまりにもぶれすぎます。
小選挙区制を主張していたマスコミや有識者が、実際に動き出すと小選挙区制度反対を言い出します。
郵政民営化も、もうじき反対論者が増えだすでしょう。
国民の信を問う選挙より経済政策だなどと言っていた人たちが、最近、まずは信を問うべきだと言い出します。
政治評論家の日和見主義は驚くほどです。
信念というものが感じられません。

輿論と世論とは似て非なるものらしいですが、世間の声に迎合して、糾弾する人が多すぎます。
いや、そういう人がテレビでは受け入れられるのでしょう。

糾弾するのと並行して、自分でできることに取りくむことが大切です。
糾弾し抗議するよりも、できることから取り組んでいくことが、遠回りのようで近いのかもしれません。
この2年、いろいろなことから離れていて、そんなことがよく見えてきました。
価値を創りだすことが、運動の出発点なのであろうと思います。

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