« ■戦時中の「赤紙」復活を思わせる裁判員候補者通知 | トップページ | ■節子への挽歌457:節子が育てた家族のルール »

2008/11/30

■節子への挽歌456:節子の話をちゃんと聴いていただろうか

先日、とてもうれしいことがありました。
そこで娘たちにその話をしました。
聴き終わった娘たちは、「あっ、そう。よかったね」といっただけでした。
それで、「節子ならもっと感激して聴いてくれるよな」と苦情を呈したら、娘がこういうのです。
「お父さんはおばあちゃんの話をきちんと関心を持って聴いていた?」
そこでグッとつまってしまいました。
さらにこう突っ込んできます。
「お父さんはお母さんの話をきちんと聴いていた?」
そういわれると、自信がなくなります。
私は節子の話に関心を持って傾聴していたつもりですが、節子が友だちと旅行に行った時の話など、一緒になって追体験するほどの思いで聴いていただろうか。
そういえば、節子が話しているのをさえぎって、それで結局、どうしたの?
君の話は長すぎるよ、などと言っていたのを思い出してしまいました。

極めつけはこうです。
「お母さんも関心をもって聴いていたかもしれないけど、ただ聴いていただけだよ」
しかし、そんなことはありません。
節子は一緒に喜んでくれたり、怒ってくれたりしてくれました。
いつもとは言えませんが、たいていはそうでした。
いや、たいていではなくて、時にはだったでしょうか。
だんだん自信がなくなってきました。
自分のことを考えると、節子ももしかしたら、私の話を長々と聴かされて辟易していたのかもしれません。
子どもたちの観察眼は、多くの場合、正しいですから。
しかし、ただ聴いてくれていただけでも、私にはこの上ない幸せな時間でした。

私が仕事や付き合いで夜遅く帰ってきても、節子はいつも私の相手をしてくれました。
そして節子もまた、その日あったことを私に話してくれました。
私たちは、その日体験したことは必ず共有することにしていたのです。
意識的にそうしていたわけではありませんが、それが私たちの文化だったのです。
その文化が私をどんなに豊かにしてくれていたのか、最近よくわかってきました。

私がほとんどストレスを持たずに過ごしてこられたのは、この文化のおかげかもしれません。
しかしもしかしたら、節子はその分、私の分までストレスを背負い込んでしまっていたのかもしれません。
そんなことを思うと、節子がますます愛おしくなります。
あの笑顔にもう一度会いたいです。
最高の伴侶でした。

|

« ■戦時中の「赤紙」復活を思わせる裁判員候補者通知 | トップページ | ■節子への挽歌457:節子が育てた家族のルール »

妻への挽歌03」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌456:節子の話をちゃんと聴いていただろうか:

« ■戦時中の「赤紙」復活を思わせる裁判員候補者通知 | トップページ | ■節子への挽歌457:節子が育てた家族のルール »