■ゾーエの生命的規範とビオスの社会的規範
このブログは、ゾーエの立場での挽歌とビオスの立場での時評とから成り立っています。
しかもそれらを峻別するのではなく、できるだけ近づけようと考えていますので、独断的な時評になり、理念的な挽歌になったりしています。
また、このブログは「読む人」のことをあまり意識せずに、「書く」ためのブログでもありますので、冗長です。
いうまでもなく、ゾーエにもビオスにも生きるための規範があります。
生命的規範と社会的規範といってもいいかもしれません。
前者はゾーエとしての生を守るための、つまり「生きるための規範」ですが、
後者はビオスとして「生きやすくするための規範」です。
いずれも生きるためのエネルギーを縮減するためのものですが、生
命が絶たれるような毒物は飲まないという生命的規範を破れば、まさに生きてはいけません。
しかし「法律には違反しない」とか「お上には逆らわない」というような社会的規範は、破ったところで生きていけますし、その規範は時代によっても権力者によっても変化します。
言い方を変えれば、社会的規範を吟味すれば、その社会の権力者が誰かが見えてくるはずです。
西部劇で、「オレがこの町の法だ」などというセリフが出てきますが、
あれは決して開拓途上の西部の話ではありません。
そもそも「法律」とはそういうものですから、国家、つまり法律の制定者が行う行為は犯罪にはなりません。
その最大の例が、戦争における殺人行為です。
社会的規範が有効なのは、それが正しいからではありません。
みんなが守っているからです。
交通信号を守ることの規範性を思い出せばいいでしょう。
社会的規範は、みんなが守るから規範性を高め、みんなが守るようになるわけです。
つまり、社会的規範とは本来、価値や生命とは別の論理で成り立っているのです。
そこにこそ、社会的規範の落とし穴があります。
社会的規範の概念が、近代社会を実現させたともいえますが、
その広がりの中で、本質的な価値に基づいて構築されていた生命的規範が次第に忘れられてしまう恐れがあります。
ややこしい話を書いてしまいましたが、
実はこのことが昨今の経済不況や政治の混乱などの背後にあるような気がしています。
実体経済の呪縛を飛び出した金融経済、
国民の生活の豊かさを犠牲にする権力政治、
そこには、「規範が規範を生む」ような、おかしな状況が感じられます。
このブログを通して、生命的規範に立脚して、社会的規範を相対化するとともに、
社会的規範を踏まえながら生命的規範を考えていければと、私は思っています。
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