■「君あり、故に我あり(Estis, ergo sum)」
挽歌462で、プライベートの語源は「奪う」にあるという話を紹介させてもらったところ、友人から、ジャイナ教の「5戒」でも「アパリグラハ(蓄えないこと、所有しないこと)」があげられているというメールをもらいました。
ジャイナ教の「非所有(アパリグラハ)」も、法頂師が書いているように、否定的意味合いではなく、すべてを分かち合うという積極的意味があるようです。
人間が自然のなかで素直に暮らしていくためには、非暴力と非所有が大事であり、それができれば、それは同時に、魂の解放につながるというわけです。
この「非所有」の思想からいまの社会を見ていくと、いろいろなことに気づきます。
日本にはもともとそうした発想がありましたし、今もなおいろいろなところにそれが残っています。
いつかそれに関しても書ければと思っているのですが、それを書くにはまだ私自身が「所有の文化」に埋もれてしまっていますので、気恥ずかしさが残ります。。
法頂さんのように、思いのまま、書ける生き方をしている人が時にうらやましいこともあります。
それはともかく、その人から「君あり、故に我あり」と言う本を教えてもらいました。
シューマッハー・カレッジに関わっているサティシュ・クマールというジャイナ教の元僧侶の人の本です。
それにしても、とても気になる書名です。
少し調べてみたら、インドで良く知られている格言「ソー・フーム(So Hum)」の訳なのだそうです。
そのまま訳すと、「彼は我なり」となるようですが、それをサティシュは「君あり、故に我あり」と言い換えているのです。
西洋近代の出発点は、デカルトの有名な「我思う、故に我あり」です。
それと対照的な世界観を予感させます。
早速、読んでみました。
心にとても素直に入ってきました。
貫いているのは「関係を見る哲学」。まさにシューマッハーです。
こういう文章があります。
デカルト的二元論の帰結は、個人をお互い及び世界全体と対立させ、人生を戦場とする。まさに昨今の日本社会の状況です。
各個人は自力で生きていかねばならず、自らの利益のための行動に没頭する。
個人主義が強者による弱者の搾取を生み、権力や富のための争いを生む。
それを克服する知恵が、「君あり、故に我あり」の世界観にあります。
サティシュはこう書いています。
私たちは、自分自身だけで存在することはできない。それに気づけば、突然の派遣切りなどは起こらないでしょう。
これは私たちの存在は他者の存在があって初めて可能である。
派遣切りの動きに対して、各地で広がりだした住宅や仕事の支援の動きに、「関係を見る哲学」の文化はまだ消えずに残っていることを確信できました。
その文化を支えているのは、やはり大企業経営者や政治家ではなく、やはり現場で汗している人たちであることも見えてきました。
文化が大きく変わる予兆が見えてきたような気がします。
| 固定リンク
「社会時評」カテゴリの記事
- ■湯島サロンのアフォーダビリティ(2025.06.25)
- ■個人情報保護という発想への違和感(2025.03.31)
- ■マイホカードの拾得電話に気をつけましょう(2025.03.18)
- ■脳の腐敗 brain rot(2024.12.16)
- ■使っていないパソコンがあったら寄付してくれませんか。(2024.12.14)
「企業時評」カテゴリの記事
- ■『信頼されるリーダーになるための37の「やめる」』(ぱる出版)の紹介(2025.04.05)
- ■がん民間療法体験26:天日塩の入った味噌(2023.10.16)
- ■『働きがいのある会社とは何か 「働きがい理論」の発見』をお勧めします(2022.11.18)
- ■20年ぶりにかっぱ寿司に行きました(2022.10.04)
- ■原発事故の損害賠償を受ける覚悟があるのでしょうか(2022.07.13)
「生き方の話」カテゴリの記事
- ■身体の劣化を先延ばしする方法を教えてください(2025.06.05)
- ■「できない理由」探しではなく、「できるための条件」探しを(2025.06.05)
- ■今朝の新聞で出合った2つのことば(2025.04.09)
- ■相手が持っている「共感できる部分」と付き合うと生活が楽しくなる(2025.02.11)
- ■「仕事とは生きること。お金に換えられなくてもいい」(2024.09.20)
コメント