■節子への挽歌463:「人は愛する何かを失う度に、自分の一部を失う」〔挽歌編〕
タイトルの言葉は、映画「ブレイブワン」の主人公、エリカ・ベインの言葉です。
彼女はラジオの「ストリート・ウォーカー」という番組でパーソナリティをしているのですが、映画の冒頭、彼女がその番組で語った言葉です。
その直後、彼女は夜のニューヨークを恋人と一緒に散歩中、暴漢たちに襲われ、恋人は生命を落とします。
彼女自身は奇跡的に生還するのですが、まあ、その後の展開はチャールス・ブロンソンの「狼よさらば」のような話です。
要するに私的な復讐劇ですが、「狼よさらば」から始まるポール・カージーものに比べるとリアリティがあります。
この映画が公開された時のメッセージは、「許せますか?」でした。
これは、難しい問題です。
挽歌編ですので、ここではそういう話ではなく、タイトルの言葉に戻ります。
恋人を失ったエリカは、たぶんこの言葉の間違いに気づいたでしょう。
「愛する何かを失う度に、自分の一部を失う」というのは、論理の世界です。
しかし、エリカがそうであったように、実際には、失うのは「一部」などではありません。
以前、私も「自らの半分」を失ったようだと書きましたが、それも不正確でした。
失うのは、自分の一部でも半分でもありません。
すべてです。
すべてが変わってしまう。
正確に言えば、失ったのは自分ではなく、周りの世界なのですが、
失った当初は、その違いに気づけません。
しかし両者は全く違うものです。
最近、やっとそれがわかってきました。
エリカの話に戻します。
事件後の番組で、彼女はこう語ります。
その衝撃はあまりに大きすぎておそらく、「一部」ではなく「すべて」を失ったエリカは、犯人への復讐だけにすべてをかけていきます。
何も感じられない。
自分の中の他人
その他人は同じ腕を
同じ脚を、同じ目をもつ
その新たな思いだけが彼女を存在させ続けるわけです。
そして、エリカはこう続けます。
かつての自分に問いかける「かつての自分」、そして「自分の中の他人」
昔に戻れる?
この感覚もすごくよくわかります。
しかし、その2人を見ている、「もう一人の自分」もいるわけです。
愛する人を失った人は、こういう複雑な状況にいるわけです。
言い方を替えると、「自分」が壊れてしまっているのです。
「ブレイブワン」は、先週、テレビで放映されたので録画して観たのですが、
エリカの「語り」がとても気になって、その部分を何回も観てしまいました。
そこからさまざまなことを考えさせられました。
少し「ブレイブワン」シリーズを続けます。
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