■節子への挽歌460:年賀欠礼の報せ
節子
年末になるといろいろな人から年賀欠礼のはがきが届きます。
だから年末は好きではありません。
節子を見送った昨年、私は年賀欠礼のハガキを出しませんでした。
事務的に報告する気分にはなれませんでした。
昨日、差出人に見覚えのない年賀欠礼状が届きました。
手書きの文章が添えられていました。
「大変お世話様になりましたこと、心より厚くお礼申し上げます」
ドキッとして、本文を読みました。
会社時代に付き合いのあった友人の奥さんからでした。
彼は私より2歳若く、65歳でした。
会社が違っていたのですが、あるテーマで彼と話したことが契機になって、ささやかな付き合いが始まりました。
そんなに親しかったわけでもありませんし、考え方もライフスタイルも全く違いました。
ただ共通点が一つだけありました。
自分でいうのもなんですが、うそが嫌いだという点です。
私が会社を辞めてからは、年賀状だけの付き合いになりました。
15年ほどたって、彼が突然部下を連れてやってきました。
名刺を見たら、副社長になっていました。
仕事の接点を探しに来たのかもしれませんが、私の生き方を知って、仕事の話は一切せずに帰りました。
世界が違ってしまっていたのです。
しかし2年前、大阪の関係会社の社長になったとまた連絡がありました。
何となく会いたくなって、大阪にある会社を訪問しました。
彼自らが工場を案内してくれました。うれしそうでした。
彼が、奥さんはどうかと訊いたので、必ず治すよと答えました。
彼も、自分はこの会社を建て直したいと話してくれました。
昨年の今頃でしょうか、東京に来たのだがと携帯に留守電が入っていました。
私も彼の携帯に節子のことを話し、会いにいけないと伝言を残しました。
その後、連絡のないままになっていました。
長々と書きましたが、最後の留守電のやりとりが、実は奇妙に心に残っていました。
彼はなぜその後、電話をくれなかったのだろうかと思ったこともありました。
義理堅い彼のことだから、何か理由があるはずです。
そして、突然の訃報。
ハガキにはこう書いてありました。
主人は努力、信念、情熱の人でした。
そして、家族をいっぱい愛してくれました。
彼とどんな話をしたのか、今ではほとんど思い出せません。
私は家族の話をしましたが、彼からは聞いたことがありません。
古武士のようなタイプの彼は、無駄口をたたくことは一切ありませんでした。
しかし、彼が私を信頼してくれていたことだけは確信が持てます。
私も彼を信頼していました。
嘘をつかない人であり、信念のためには命も投げ出す人でした。
また一人、友を失いました。
しかしもし仮に、彼が私よりも長生きしたとしても、せいぜい会うのはあと1~2回だったでしょう。
いや会うことはなかったかもしれません。
そう考えると、死とはなんだろうかと改めて考えたくなります。
節子
君も会ったことのある藤原さんです。
そちらで会ったらよろしく伝えてください。
| 固定リンク
「妻への挽歌03」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌600:真実に生きる(2009.04.24)
- ■節子への挽歌599:遍在転生の死生観(2009.04.23)
- ■節子への挽歌598:寄り添う2人(2009.04.22)
- ■節子への挽歌597:美野里町の牡丹(2009.04.21)
コメント