■節子への挽歌465:「人は何かを失う度に、新しい何かを得る」
また「ブレイブワン」シリーズです。
このシリーズは、ややこしいのと退屈なのが欠点です。
しかも、私の素直な考えの変化の書きなぐりですので、論旨に乱れもあります。
お許しください。
エリカが得たのは、「新しい自分」だけではなかったでしょう。
「永遠のデイビッド」(デイビッドはエリカの愛する婚約者でした)も得たのです。
映画が終わって、それを感じました。
新しい人生の始まりと言ってもいいでしょう。
私は、抱きしめることのできる節子を失いました。
しかし、決して愛し合うことの終わらない「永遠の節子」を得ました。
それがどれほど「あたたかな気持ち」になれることか、たぶん体験した人でないとわからないでしょう。
もちろん、その「あたたかさ」は、涙を抑えきれないほどの「さびしさ」と同居しているのですが、時に訪れる至福の瞬間があるのです。
いつかそのことを言葉にできればいいのですが、まだ言葉にはできません。
体験したのもまだ2回だけです。
ところで、「人は愛する何かを失う度に、自分の一部を失う」というエリカの言葉は、
「愛する何か」と「愛する自分」が一体化していることを示唆しています。
つまり、「愛する何か」への変わることのない「愛」への気づきを起こします。
それは新しい気づきであり、新しい「愛」との出会いです。
そうであれば、「人は何かを失う度に、新しい何かを得る」といってもいいわけです。
人を支えているのは、やはり「愛」なのではないか。
昔からずっと頭だけで考えていた、その考えが、最近、実感できるようになりました。
愛の対象は「伴侶」とは限りません。
親の場合もあれば子どもの場合もある。
妹の場合もあれば、友人の場合もあるでしょう。
自分への愛もあるかもしれない。
いや、人に限った話ではありません。
なかには「お金」と言う人もいるかもしれません。
形のないものの場合もあるでしょう。
誇りや夢、あるいは信念。
愛の対象はさまざまです。
事件前のエリカは、「人は愛する何かを失う度に、自分の一部を失う」と考えていました。
「愛する人」を失った直後のエリカは、「自分を失ってしまった」と考えていたように思います。
私もまさにそうでした。
しかし、「愛する人」を失うことはあっても、「愛」を失うことはないのです。
「愛するもの」と「愛」とは、違うのです。
「愛」は、自分と愛する人との間にあるのです。
最近、ようやくそのことに気づきだしました。
時評編に書いたように、この映画は、観る人にエリカの行動を「許しますか」と問いかけていますが、私の関心は、「戻れますか」にあります。
その答えは、いまは明確です。
「戻れます」
そして、エリカは「戻った」のです。
人は、愛する何かを失うと全く別人になるのかもしれません。
しかし、その「愛」の深さに気づけば、人はまた戻れるのです。
しかも、愛する人と一体になって。
人を支えているのは「愛」なのです。
何回も言いますが、節子は私にとって最高の伴侶でした。
会えないことは、言い表せないほど、悲しいですが、
でも、「永遠の節子」を得たのですから、喜ばなければいけません。
節子、きみも彼岸で喜んでいてくれますか。
最近、少しは「男前」に生きようかと思い出しています。
まあ、daxさんのようにはいきませんが。
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