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2008/12/26

■節子への挽歌481:ロゴセラピーと「人生の意味」

先日、お会いした精神看護学教授の福山さんからメールが来ました。

私はヴィクトール・フランクルのロゴセラピー的な考え方が好きです。
人生の意味を見出している人は、苦悩にも耐えることができるというものです。
だから、その時、その時を、その辛い体験と向き合い、その体験に意味づけられるように、臨床看護の場では、病む患者さん、ご家族と、いつも一緒でした。
それは実は自分の課題でもあるんです。
そのようにして、人は人と真に出会い、生かされているように思えてなりません。
ロゴセラピーとは、対話を通して、その人の「人生の意味」に気づかせることで心の病を癒す心理療法のことだそうです。
私には初めての言葉でした。
創始者はヴィクトール・フランクル。
ナチスによって強制収容所に送られ、そこでの体験を『夜と霧』にまとめた精神分析家です。
学生の頃、読んで以来、その印象があまりに強くて、私には不得手な人です。
しかし、その『夜と霧』のテーマも、「希望」が根底に流れているといわれています。
彼を支えていたのが、きっとこのロゴセラピーの理念なのでしょう。
だからこそ、フランクルは過酷な収容所生活を生き抜けたわけです。

「人生の意味を見出している人は、苦悩にも耐えることができる」。
全く同感です。
そして、人生にはすべて「意味」がある、ということもわかっていたつもりです。
しかし、その確信が、節子との別れによって、もろくも瓦解してしまったこともまた、事実なのです。
もし1年前だったら、ロゴセラピーのことを知っても、たぶんどこかで拒絶反応が起きたでしょう。
しかし、いまは素直に納得できるのです。
1か月ほど前から、そうしたことを受容する素地ができてきたように思います。
まさにその時に、福山さんから声をかけてもらい、ロゴセラピーの話を教えてもらったのは、きっと意味のあることなのでしょう。
ちなみに、福山さんにお会いした翌日、初めてオフィスに来てくださった初対面の方から「生と死」についての話をお聞きしましたが、その人が話していたことが、まさにロゴセラピーの考え方でした。
その奇妙な符合にも意味を感じます。

12月になってから、「節子がいなくなった人生の意味」を積極的に考えることを促されているようなことが続いています。
これも決して偶然のことではないでしょう。
私にとっては、今もなお「節子のために生きている人生」であることには変わりはないのですが、最近、改めて節子のために何が出来るかを考える気力が生まれてきているような気がします。
ちょっと気が戻ってきているのでしょうか。

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