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2008/12/04

■豊かになる出発点は、「ありがとう」の一言

アフリカのケニヤのある地域では、相手に何かをしてあげた人が「ありがとう」と言う文化があるそうです。誰かに何かしてあげることができる自分を感謝するとともに、その善行を拒否せずに可能としてくれる相手に感謝するのだそうです。
とても共感できます。

先日の支えあいサロンで、ボランティアの人にお礼をすることの是非が少しだけ話題になりました。
そのときに思い出した話です。
日本では無償行為がボランティアだと考える人が多いです、
そのため、ボランティアの人にお礼をすると怒り出す人さえいます。
お金をくれるようなら、もうやりたくないというわけです。
こういう人は、「お金のため」にやっている人と同じ類の人だろうと、私は思います。
お金に囚われているわけですから。

それに素直な感謝の気持ちとしてお礼を差し出した人に対して、かたくなに断るなどということは相手に対して失礼な態度としか言いようがありません。
ケアマインドが全くないというべきでしょう。
言い換えれば、相手より自分を上に置いていることになります。
そうした人の施しは、目線の高い施しであり、決してボランティアとはいえないと私は思っています。
人からの施しをもらうこともまた施しなのです。

うまく伝わったかどうか心配ですが、ケアとかボランティアとかは、一方的な行為ではなく、双方向的な関係概念だと思います。

最近中断していますが、以前やっていたコモンズ村の通貨ジョンギでこんなことがありました。
ある人がテーマパークのチケットを購入したのに行けなくなってしまいました。
それで誰か行く人はいないかと呼びかけました。
幸いに村民の一人が、孫と一緒に行きたいと言ってくれました。
そこでチケットはその人に譲られたのですが、その取引において、通貨はどちらからどちらに動いたと思いますか。
チケットと一緒に通貨も動いたのです。
つまり、「チケットが無駄になるところだったのに使ってくれてありがとう」というわけです。
そして、同時に、チケットを譲ってもらった方の人も、「使わせてもらってありがとう」と同額の通貨をその人に送ったのです。
詳しくは私のホームページを読んでください。

この取引は、まさに上のケニアの話に通じています。
そして、そうした文化においては、いつか通貨は不要になっていくはずです。

取引手段としての通貨は、本来、貧しい時代の過度的な手段なのです。
目指すのは、「ありがとう」を言い合う文化でした。
しかし、残念ながらその過度的な取引手段が、主役になってきました。
それに伴って、「ありがとう」がなくなってきたのかもしれません。

私は、目線を同じくする人からの施しは進んでもらうようにしています。
そのせいかいろんな人がいろんなもの(こと)をくれます。
ですからお金がなくても、私はいつも豊かなのかもしれません。
豊かになる出発点は、「ありがとう」の一言なのです。

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