■私的復讐を許せるか
「ブレイブワン」が突きつけている問いかけも 少し考えてみたくなりました。
エリカは、恋人を殺した犯人を警察に逮捕させ、裁判で処罰する方法を選びませんでした。
警察に嘘を言ってまで、自らの手で処罰しようとしました。
エリカの心情を知った刑事も、最後にエリカに加担してしまいます。
そして、エリカの私的復讐は成就しました。
この映画は観客に、そうした私的復讐を許しますか、と問いかけてきます。
おそらくこの映画を観た人のほとんどが、この結末でホッとしたでしょう。
アメリカでは議論が盛り上がったということですが、論理はともかく、感情的には、多くの人はエリカと刑事に拍手を送るはずです。
それが自らを守る本能を持っている生命体としての素直な反応だと思います。
加害者を裁く権利を放棄することによって近代国家は成立しました。
私自身は、そこに大きな問題があると考えています。
生命体としての素直な感情にはそぐわないからです。
ビオス的な立場からは肯定してしまいますが、いざ自分が被害者になったら、その解決を国家にゆだねられるかどうか。
もし、その国家が、そして司法が信頼できるものであれば、状況は少しは違うかもしれませんが、少なくとも今の日本の国家や司法界には任せたくない気もします。
もし私が天涯孤独の存在であったら、エリカと同じ方法を選ぶかもしれません。
そしてきっとムルソーのように、死刑を選ぶでしょう。
議論を飛躍させます。
いま始まろうとしている「裁判員制度」の、裁判員に「事件の被害者」を含ませるのはどうでしょうか。
事件の当事者は客観的な判断ができないという理由で、そんなことは論外だとみんな考えるでしょうが、なぜ「客観的な判断」でなければいけないのでしょうか。
いや、そもそも「客観的な判断」などというのがあるのでしょうか。
そこに「制度化」の罠を感じます。
裁く側に被害者がいてこそ初めて、秩序維持のための無機質な裁判を克服できるという論理も成り立ちます。
もちろん、裁かれる側の弁護に、加害者自身がいてもいいでしょう。
要は、人を裁く権利は他人にはないというのが、私の考えです。
ですから、近代の第三者による裁判とは違った裁判制度もあるはずです。
さて肝心の、この映画の問いかけへの回答です。
私は、この事件に関しては「許したい」です。
しかし、これを許したら、際限なく私刑が広がるでしょう。
現実の事件は、映画ほど単純ではないからです。
ですから、結論的には「許さない」が、私の答えです。
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