■節子への挽歌470:生きている以上、良いこともあれば悪いこともある
節子
昨日、新潟のSYさんが会いに来てくれました。
この2年の間に息子さんとお父さんを続けて亡くされたのです。
先日、新潟でお会いした時に少しだけ「心の内」を見せてくれていましたが、元気そうに振舞っていました。
しかし、ずっとどこかに気になるものがありました。
年内にもう一度会いたいと思っていたのですが、幸いに東京に来る機会があってお会いできたのです。
いつものように、つまりお互いに何もなかったように、いろいろと話をしましたが、帰り際に「もう落ちついた?」という言葉を契機に、お互いに真情を吐露することになりました。
元気そうにしていても、みんなどこかに発散させたい気持ちがあるのです。
私は、気持ちを発散させることの大切さを知っていますので、だれかれとなく話してしまいますが、ふつうはそうはしないでしょう。
話してもわかってもらえるはずもないし、わかったという人に限って、勘違いされてしまうことを体験しているために、こういう話はなかなか話せないのです。
しかし、そもそも「わかるはずがない」のです。
愛する人を失った悲しみは、人によって全く違うでしょうから。
ですから、わかったなどといわれるとなおさら寂しくなることもあるのです。
SYさんがしみじみと言いました。
生きている以上、変化していくのだから、良いこともあれば悪いこともある。たしかにそうです。
みんなそれぞれにそういうことを背負っているんですよね。
子どもたちがまだ幼く、何の屈託もなく、私たち夫婦も元気で、世界がどんどん広がっている頃が、たぶんわが家の幸せの頂点だったのかもしれません。
そのころは、そんな意識など全くなく、幸せは大きくなる一方という気がしていました。
しかし、いろいろな形で悪いことも並行して大きくなっていたのです。
それが「終わり」のある「個人の人生」でしょう。
悪いことがあるから良いことがあり、良いことがあるから悪いことがある、のです。
それはわかっているのですが、生活を共にする人の人生がからんでくると、そう簡単には割り切れないのです。
「個人の人生」ではなく、「夫婦の人生」「家族の人生」になっているからでしょうか。
自分の不幸や自分の死は耐えられても、愛する人のそれは耐え難いものがあるのです。
そんなことを短い会話のうちに、SYさんと共有できました。
短い時間でしたが、お互いに思いを吐露できて、とてもよかったです。
辛さは外に発散しなければいけません。
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