■どの掟に従うか
最近、リンクさせてもらったブログで読んだ記事がずっと気になっています。
daxさんという、5年前までヤクザだった人の「手垢のついたメモ帳」というブログです。
俺は日本の法律をたくさん犯したが、ヤクザの法律はきちんと守ってきた。ヤクザの法律は、「ヤクザの掟」と言ってもいいでしょう。
ヤクザの法律を守るということは、日本の法律に背く事になるのだが、
その部分については、日本の法律に決められた方法に従って、責任を果たしてきた。
「服役」という責任の取り方で・・・。
そもそも人が集まれば、集団を秩序化するために掟(ルール)が生まれます。
掟があることで、メンバーは行動しやすくなります。
しかし、集団の掟は、その集団の実状に合わせて創られますから、ほかの集団の掟とは同じになるとは限りません。
その組織集団が結束力を高めようとすればするほど、掟も特殊化しかねません。
会社には会社の、役所には役所の、学校には学校の、掟が生まれるでしょう。
掟違反に対しては罰則が適用されます。
しかし、そうした罰則にも、かつては救いの仕組みが用意されていました。
その典型が「村八分」の知恵です。
掟を破って村人が絶縁した人にも、葬式と火事の際には付き合いが保証されていました。
しかし、掟が明文化され、近代的な法律に整備されるとともに、救いの仕組みは消える傾向があります。
ちなみに、ヤクザの掟と日本の法律の、どちらが正しいかというのは無意味の質問です。
そもそも法とか掟は秩序化のための判断基準でしかありませんから、それ自体が正しいかどうかとは無縁の存在です。
内容がどうであろうと、その秩序の内部では守ることが正しいということになります。
ですから「悪法もまた法」なのです。
しかし、ヤクザの世界もまた日本の中に存在する以上、上位の世界のルールには従わなければいけません。
それが秩序というものだからです。
自分の属する社会の掟とその社会を包括する上位の社会の掟とが食い違った時に、人は悩みます。
上位の社会の掟を守ることを是とする人もいるでしょうし、より身近な社会の掟を守ることを是とする人もいるでしょう。
少し前までの日本には、後者の文化がかなり残っていました。
しかし、どちらに従っても、もう一つの掟から罰せられることになります。
daxさんは、ヤクザの掟を守ったために、服役することになったわけです。
長々書いてしまいましたが、こうした視点で昨今のさまざまな事件をみていくと考えさせられることが多いです。
また社会がどう変質してきているかも見えてくるような気がします。
掟の構造化は社会を見る場合の大きな基準になります。
人の行動は、すべて何らかの「掟」に従っているはずです。
個人の信条も、ある意味では心の中に決めた通時的な掟です。
各人の心の掟(信条)から宇宙的な自然の掟(摂理)にいたるまで、さまざまな掟がありますが、それらが有機的につながっているかどうかは重要な問題です。
近代国家システムは、そんなことに配慮することなく、ある視点で作られた掟を「国家の法律」とし、それを最優先することにしたわけです。
それが「法治国家」の理念です。
社会が成熟してきたいま、そうした「掟の階層構造」を見直していくことが必要になってきているような気がします。
つまり掟の階層化のベクトルを反転させることが検討されてもいいような気がしますが、どうでしょうか。
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