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2008/12/10

■節子への挽歌466:心身から発するもの

まだ「ブレイブワン」シリーズは続くのですが、今日は少し寄り道をします。
6日に日本構想学会の集まりがありました。
いろいろな分野と世代の集まる、議論の場です。
そこでの議論のいくつかは、CWSコモンズの週間報告に書きました。

そこで、1年ぶりに会ったメンバーたちから「佐藤さんが元気になってよかった」といわれました。
これも何回か書いていますが、そういわれるのは、1年前がかなりひどかったということです。
そんなにひどかった? と訊くと、そうだったといいます。
私の意識では、人に会った時は元気になっているはずですので、そう感ずるのは相手の気持ちがそう見えさせるのだろうと確信していました。
今もそう思っています。
しかしどうもそればかりではないようです。
きっと私の心身から発するものが違っていたのでしょう。

婚約者を殺害されたエリカは、元気そうに振舞いながらも、人の目線を気にしない時は、壊れた生命体を思わせるほどです。
婚約者の墓の前で、「また戻れるか、答えてよ」と問いかける時のエリカの姿は、とてもジョディー・フォスターの演技だとは思えないほど、生々しいです。
もしかしたら、1年前の私は、それに似た姿だったのかもしれません。

だとしたら、周りの人から元気を吸い取っていたのかもしれません。
これまでは、「元気になったね」という指摘に反発を感じていましたが、
素直にそれを受け入れることにしようと思い出しました。
外観は取り繕えても、心身から発する生命力はごまかしようがないのですね。
そうなると、やはり「半身を殺がれていた」というのは事実かもしれません。

ややこしくなりましたが、いずれにしろ、元気になってきていることを喜びたいと思います。
しかし、まわりから元気を吸い取る何かが、まだ私には付きまとっているのでしょうね。
いつになったら、「私の元気」が話題にならなくなるのでしょうか。
早くそうなるように、取り繕う元気ではない元気を高めていこうと思います。

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