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2008/12/30

■「やさしさ」と「つめたさ」

今年も余すところ1日です。
私にとってだけでなく、今年はさまざまなことがクロスし、
状況が大きく変わっていく「せめぎ合い」の年だったように思います。

このブログの時評編では、社会が壊れてきていると何回も書きました。
しかし、それは新しい社会のはじまりなのかもしれません。
派遣切り問題から広がりだした、支え合いの輪は実に感動的です。
世界が変わりだしたようなイメージさえあります。

私が会社を辞めたのは1984年、平成元年です。
会社を辞めて、独りで活動を開始して体感したのは、時代が大きく変わりだそうとしている風でした。
その頃の年賀状に、よく「地殻変動の予感」とか「地殻変動の確信」とか書いていたことを思い出します。
しかし残念ながら1990年代の後半になるにつれ、その地殻変動の動きは変質してしまいました。
以前の延長に戻りだしたのです。
社会が壊れだすような感じでした。
そしてその流れから見ると、社会はまさにかなり壊れてしまったように思います。

ところがそうした壊れだした社会の中から新しい動きが出始めているのを、最近また感じられるようになりました。
それは社会現象からだけではなく、私自身の少し特殊な体験からも、です。
いや、それがあればこそ、その変化を心から実感できるのかもしれません。

挽歌編で書いていますが、私は昨年、妻を亡くしました。
私にとっては思ってもいなかった体験であり、いまだその事実を受け入れられない状況にあります。
しかし、そのことを通して、人の「やさしさ」や「いのちのつながり」を深く実感させてもらいました。
世界はなんと「やさしさ」で満ち満ちているのかということに改めて感激しました。

一昨日、こんなメールが来ました。

佐藤さんにお元気になっていただきたいと願って居ましたら、いつのまにか私のほうがはげまされている状態でした。
この方は、相談と称して何回も湯島に来てくれました。
その相談の内容がよくわからなかったので、いささかの苛立ちさえ感じていたのですが、
彼女は私を励ましに来てくださっていたのです。
なんと鈍感なことでしょうか。
恥ずかしい話です。

「鈍感さ」とは正反対に、最近、人の「情」に関する「ひがみっぽさ」は敏感になっていました。
自分でもいささか嫌悪したくなるほど、「言葉」に過剰に反応し、人への不信感をもったこともあります。
しかし、みんなそれぞれの事情を抱えていることを思いやる余裕が最近ようやく戻ってきました。
結局、不信感は自らの気持ちの現われでしかありません。
世界は自分のこころの鏡像なのです。

マスコミ報道でみると、社会の冷たさのニュースが多すぎて、いささか気持ちが沈みます。
しかし、もしかしたら、実はさまざまな「あたたかなエピソード」がたくさんあるのではないかと思うのです。
私自身がそうだからですが、これはなにも私のまわりに限ったことではないでしょう。
その証拠が、派遣切り問題から始まった支え合いの輪の広がりです。
自分の心が変われば、世界は違った様相を見せてくれるかもしれません。

年末に友人から教えてもらった、サティシュ・クマールの「君あり、故に我あり」を読みました。
「インド思想が説く平和をめざす新原理」と本の帯に書いてあります。
書かれていることのすべてに共感しました。
ガンジーに対する私自身の偏狭な見方も反省させられました。
この歳になって、やっと自らの卑しさを思い知らされるのは辛いことですが、
もっと「やさしさ」をもって、社会を見ることにしたいと思います。
まず自らのうちにある「つめたさ」を克服しなければ、社会の「あたたか」に気づくことはないでしょう。
サティシュはこう書いています。

「人は平和であるとき、平和を発散するのだ」
最近、やっとこの意味がわかってきました。

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