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2008/12/11

■節子への挽歌467:世界が変わったのか、自分が変わったのか

ブレイブワンシリーズの初回(挽歌443)に、

失ったのは自分ではなく、周りの世界なのですが、当初は、その違いに気づけません。
しかし両者は全く違うものです。
と書きました。

変わったのは自分ではなく、周りの世界だということですが、これは考えてみれば当然のことです。
節子がいなくなった世界は、私にとってはそれまでとは全く違った世界であることはいうまでもありません。
いなくなってから気づいたことですが、私にとって世界の半分は節子だったといえるほど、節子の存在は大きかったのです。

しかし、エリカもそうでしたが、愛する者を失うと、自分の人生が音を出して壊れてしまうのです。
まさに「自分を失ってしまう」という感じです。
世界に関しては、いつか書きましたが、節子がいなくなったのに何で以前と同じように動いているのだと、むしろ変化しないことに怒りさえ感ずるのです。
まあ、自分勝手な話です。

ぞんなわけで、世界が変わったのにもかかわらず、自分が変わってしまった、自分の人生も終わってしまった、そんな気になってしまうのです。
意識し思考する自分さえがいないような奇妙な気持ちにさえなることもあります。

しかし少し立ち止まって考えれば、変わってしまった世界との付き合い方がわからずに、おろおろしている自分に気づくはずです。
変わったのは自分ではない、世界なのだと。

それでも悩ましい問題があります。
それにしても、愛するもの、私の場合は節子ですが、それがどこにいるのか、と考え出してしまうのです。
彼岸に行ってしまったということはわかっているのですが、2人で創りあげてきた世界の中に節子がいないはずがない、という奇妙な確信が心身のどこかに消えずにあります。
存在しない節子の存在を否定できない何かが、心のどこかに残っています。
つまり、世界は変わっていないと思い続けたいのです。
そうした心の帳尻をどこでつければいいのかは、悩ましい問題です。

こう書いてきて、今気づきました。
自分と世界を分けて考えているから、こうした悩ましい問題が生じるのかもしれません。
私の世界には、私が包括されています。
ですから、変化するもしないも、私と世界は同調しているはずですね。
変わったのは、私であり世界である。
そうであれば、私も世界も変わっていないともいえそうです。

ややこしくなってきましたが、何だかますます引きずり込まれそうです。
でもこれ以上、読者の方にお付き合いいただくのは気が引けます。
もう少しまとまったらまた書くことにし、「ブレイブワン」ものはもう終わりにします。

このブレイブワンシリーズでは、よくわからないことを長々と書いてきてしまいました。
すみません。
いろいろと考えさせられたのですが、消化不良なのです。
肝心のことが書けていないような気がするのですが、これ以上書くと読者がいなくなりそうなので、今回でやめます。
付き合ってくださった方には感謝しなければいけません。
ありがとうございました。

たぶん節子は付き合ってくれていないでしょう。
もっとシンプルに考えなさいと笑っている彼女の顔が目に浮かびます。
いやはや。

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