■節子への挽歌459:罪悪感
今年最後の月命日です。
月命日の日はいつも自宅で過ごすことにしていましたが、今日は、ある委員会に参加するため、午後、家をあけました。
午前中は在宅し、お墓にもお参りしたのですが、何だか少し気が落ちつきません。
節子の月命日に出かけたのは、今回で2回目です。
ある事が起きて、その事がどうしても受け入れられない場合、一番簡単な方法は、自らの罪悪感であがなうことです。
愛する者の死は、まさにそれに当たります。
おそらく事故や犯罪で愛する人を失った場合も、そうなのではないかと思います。
加害者をとがめたくなるのは当然でしょうが、とがめて何かが変わるわけではありません。
結局、自らを責めることになるような気がします。
愛する人を失った責任は自分にあると思うと、発想を完結させられるからです。
私の場合は、そうです。
節子を治せなかったのは私の責任ではないという考えを裏付ける理由はいくらでも見つけ出せます。
しかしそれを見つけたり考えたりするのはとても辛いので、考えないようにしていますが、ともかく心の奥に深い罪悪感があるのです。
何回か書いていますが、誰が何と言おうとその罪悪感は消せません。
いつもはお墓でも位牌でも、口に出るのは「節子、ありがとう」です。
でも月命日だけは、「ごめんね、節子」になります。
月命日は、私にとっては懺悔の日なのです。
ですから月命日には自宅で「懺悔の1日」を過ごすことにしているのです。
そしてそれ以外の日は、できるだけ罪悪感は封印しています。
その懺悔の日なのに、今日は出かけてしまいました。
こうして生活がまた元のようになっていってしまうのでしょうか。
昔の私なら、問題は懺悔の心であって、型ではないよ、というでしょう。
しかし最近は、型にも意味があるような気がしてきています。
節子も型よりも実の人でしたが、今はどうでしょうか。
やはり月命日は自宅で節子と一緒にいようと思いました。
委員会が終わって急いで帰宅したら、敦賀の義姉から節子への供物が届いていました。
今年最後の月命日だからといって、節子の好物を送ってくれました。
節子と一緒に、家族みんなで食べました。
こうして15回目の月命日は終わりました。
節子、ありがとう。
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