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2008/12/07

■「人は愛する何かを失う度に、自分の一部を失う」〔時評編〕

挽歌編に同じタイトルの記事を書きました。
それに絡ませながら、社会時評編を書くことにしました。

こちらの話題は、最近発生した元厚生次官連続襲撃事件の犯人の動機です。
犯人は、子どものころ、飼い犬を殺された復讐だと弁明しています。
後付けの理由だという人もいますし、そんなことで30年近くたってから人を襲うかという人もいます。
私もそう思っていました。
そんな理由が納得できるわけがないからです。
しかし、挽歌編で「ブレイブワン」のエリカのことを書いているうちに、この事件の犯人の顔を思い出しました。
もしかしたら、彼の言っていることは本当かもしれない。

この事件は悲劇ですが、社会的な意義はないと思っています。
テロなどではありませんし、そこから大きな教訓も得られない、特異な事件です。
マスコミは盛んに取り上げますが、追随者を生み出す恐れのほうを危惧します。
事故的事件として、犯人も無視すべきではないかと思います。
最近のマスコミは、こうした事件に関して、詳細な経緯や犯人の過去を報道することが多いですが、そうした姿勢には疑問を感じます。
あまり意味のないものに過剰な意味を与えるのは危険です。

しかし、そう思いながらも、愛する飼い犬を失ったことが、彼の人生を大きく変えてしまったということが、とても気になりだしました。
人の生き方には、常に「危うさ」が付きまとっています。
ちょっとした事件が、人生を大きく変えていくのです。
バタフライ効果を体験した人は決して少なくないでしょう。
ですからこの事件の犯人の言っていることも、事実と思うべきではないかと思いだしました。

エリカの他に、もう一人思い出した人がいます。
カミユの「異邦人」の主人公ムルソーです。
ムルソーもまた、愛するママン(母親)を亡くします。
それが彼の人生を一変させます。
それも極めて特殊な方向へと人生を変えていくわけです。
彼は殺人事件を起こし、自らも死刑になります。
彼がそうなったのは、なぜでしょうか
もしかしたら、彼を素直に受け入れる人がいなかったからです。
そこで、今回の事件の犯人と重なってきてしまいます。

エリカもムルソーも、今回の事件の犯人も、みんな「愛する何か」を失いました。
その時に、その衝撃をわかってくれた人がいたかどうか。
そうした衝撃を緩和してくれる仕組みが、どうも社会からなくなりつつあるのかもしれません。
そこをこそ、考えたい気がします。

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