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2008/12/23

■節子への挽歌478:節子に話したいことが山のようにたまってしまいました

節子
先週はとても話題が多い週になりました。
多すぎていささか疲れました。
以前であれば、節子と喜びを分かち合い、辛さを分かち合うことができました。
私が出合った話題や事件、あるいは課題や問題も、節子と話しながら、その取り組みを考えることもできました。
でも、それらを分かち合う節子はいません。
そのため、話題や思いや情報が、溢れ出てしまうほど私の心身にたまってきています。
どこかで吐き出したいのですが、たまる一方です。

かなりプライバシーに関わる問題もありますから、そう簡単に口外はできません。
隠し事のできない私としては、これが一番辛いです。
「王さまの馬はロバの耳」というお話がありましたが、最近、それをよく思い出します。

節子と私は完全に情報をシェアしていましたから、友人知人のどんな個人的な話も分かち合うことができました。
それがどれほど私の活動を広げてくれていたか、最近、改めて実感します。
私が同時並行に多様なプロジェクトに取り組めたのは、節子のおかげだったのです。
いわばパソコンの外付けハードのような役目を、節子は果たしてくれていたのかもしれません。

あまり親しくない知人のことであろうと、個人の事情を引き受けることは、それなりのエネルギーが必要です。
「いのちの電話」などで相談に乗っている人の強さは、私には驚嘆に値します。
節子がいるときには、しかし、たぶん私にもその強さがあったのかもしれません。
私に生きる意味を与えてくれる節子がいればこそ、今の私があるのですね。
でも、「いまの私」は、「以前の私」ではないのかもしれません。
どんな体験も分かち合う人がいればこそ、昇華されますが、自分の中に抱え込んでおくと身勝手に増殖してしまいます。
その先行きがいささか心配です。
あまりに抱え込んだ情報で、自分がパンクしなければいいのですが。

それにしても、節子がいなくなったというのに、
私の周りでは相変わらずさまざまな事件が続発しています。
少しは私の事情も考えてくれ、といいたいですが、そんなわけにはいきません。
しかも、悪いことには、節子がいなくなってから、私自身の感受性はむしろ高まってしまっています。
昔もそうでしたが、それ以上に涙がよく出ますし、怒りを感じます。
素直に対応していたら、たぶん身が持ちません。
泣きたい時には泣き、怒りたい時には怒ればいいのですが、それがまた感情を増幅させることも少なくありません。

たまってしまった、たくさんの話題や思いを、早く節子に直接話したいです。
でもそうしたたくさんの問題を前にすると、そう簡単に節子のところにも行けません。
海士町からの帰りに船の上から飛び降りたら、今頃は節子に話せていたかもしれませんが、節子はきっと喜ばないでしょうし、私自身の心残りはそれ以上のものでしょう。

早くこの世界も、平安な浄土になってほしいです。
そうなれば、きっと彼岸と此岸との往来も可能になるような気がします。

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