■「病気の治療(cure)」と「患者への世話(care)」
時評ブログをきちんと書き出そうと思っていたのに、今朝、目が覚めたら、めまいのために歩けない状況になってしまいました。
脳障害を心配しましたが、どうもそうではなく、内耳の三半規管の障害のようでした。
1日ほとんど寝ていたのですが、薬のせいかだいぶ良くなりました。
この症状は2回目なのですが、前回は死ぬんじゃないかと思うほど辛かったのですが、今回は軽くすみそうです。
しかし、今も胸がムカムカし、思考力は散漫で、気力にいたってはほぼ皆無です。
でもまあ、昨日再開と書いたので書こうと思って、パソコンに向かいました。
やはり何も浮かびません。
で、今日、行った柏市の岡田クリニックのことを書きます。
岡田医師は往診もするクリニックを数年前に開きました。
以前は私の近くの病院の医師で、母がお世話になった医師です。
女房が自宅療養するになった時に、とてもお世話になりました。
1年半ぶりに行きました。
午後の最後に行ったために、かなり混んでいました。
思考力なく、私はただ座っていましたが、こんな風景を見ました。
患者の一人が薬を調合してくれた看護師の方と、たぶん家族の話をしていました。
ぼんやりと聞いていたのですが、その人の病気とはあんまり関係のない話でした。
その人の洗濯機は全自動ではないこともわかりました(まあ、どうでもいいことですが)。
最初、私は、この患者の人は看護師の時間を占拠し、他の患者たちに迷惑をかけているのに気づかないのか、とちょっと批判的に感じていました。
看護師の方は混んでいることもあって、早く切り上げたいと思っているのではないかと思いましたが、どうも話を聞いていると看護師さんも親身になった楽しそうに話しているのです。
そこでハッと気づきました。
これこそが本当の医療のかたちではないのか。
それに、私がまだ時間効率意識が抜け切れていないことにも気づきました。
そして、ケアなき治療のことを思い出しました。
医療が、医学による「病気の治療(cure)」となってしまい、気持ちをこめての「患者への世話(care)」から離れてしまったことに、私は批判的だったのではないか。
病気だけを診るのではなく、病人を診よ、と医師にいいたがっていたのではないか。
自分の身勝手さに恥じいりました。
診察が終わって、会計をしようと思ったら、看護師さんが来てくれました。
女房が最期までお世話になった看護師の方たちです。
患者もいなくなったので、私も無駄話を少ししてしまいました。
岡田医師は、そうした人間の声が溢れるようなクリニックを目指しているのかもしれません。
きっとここに来るだけで元気になるお年寄りやお母さん方もいるのでしょう。
クリニックの裏の駐車場から診察室が見えるのですが、
私たちを見つけた岡田医師は、椅子からたちあがって、ていねいに私たちを見送ってくれました。
そのせいか、めまいは薬を飲む前にほとんどなくなりました。
医師と看護師と薬剤師と患者、さらには患者の家族。
それらが心を通わせあうことができれば、病気も少なくなっていくでしょうね。
病院と関わる勇気をこの1年半、失っていましたが、今年は少し関われればと思い出しました。
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コメント
佐藤さん
そうですね 会話には 声 があります
なにを当たり前のことを と思うのですが
そこには肉声=音 があります
そして 発する人の口から 空気を通じて
その「気持ち」までもが聞く側の心身に入っていく
佐藤さんの文を読んでいて はたと気づきました
しゃべる言葉には イントネーションがあり 音階があり リズムやスピードがある
会話 というのは 音楽的効用があるのだろう と
どうりで あの方と話していると そのあと なぜか元気になる というのは
気のせいではないのかも知れません
その人の音楽(声/波長)が届いて、作用してるのです!
(音波療法?… モーツァルト的…)
話し方 の浅野さんと相談して
相手が元気になる音楽的話し方 というのを研究しようかな(笑)
会話は care でもあるし 実際のところ cure なのかも知れませんよ
宮内
投稿: 宮内 俊郎 | 2009/01/24 11:03