■国家の解体が進んでいるのかもしれません
戦火が拡大する一方のガザの状況には、やりきれないものを感じます。
なぜこんな状況になってしまうのでしょうか。
そこで思い出したのが、昨年末に読んだ塩野七生さんの「ローマ亡き後の地中海世界」の文章です。
現代では「イスラム諸国」と言うようにイスラム教徒たちも国別に分かれ、イスラム教徒でないわれわれもそれを当然と思っている。もしかしたらユダヤもイスラムも、国家概念がないから、こんな状況になってしまっているのかもしれません。
だが、イスラム教にはもともと、国家の概念が存在しない。
イスラム教を信ずる人々すべてを囲いこむ、「イスラムの家」の概念があるだけである。
長い間、国家を保持せずに世界を舞台にしていたユダヤ民族もまた、国家概念がないのかもしれません。
国家がないとどうなるか。
「国益」という概念も「国民」という概念もないでしょうし、なによりも暴力の管理体制がありません。
いや、パレスチナに限った話ではありません。
昨今泥沼化している紛争は、国家を前提としていないのではないかと思い出しました。
そう考えると、いろいろなことが見えてくるような気がします。
ネグリ=ハートの「マルチチュード」が、身近に感じられます。
国家を前提とした「国際関係」では、世界はもはや見えなくなってしまっているのです。
そして、もはや秩序だった戦争は難しくなってきているのでしょう。
そうした中では、秩序を大義とする国家が敗北することは明らかです。
もちろん国家からの解放を目指す活動もまた、大きな勝利は望むべきもありません。
勝者のない戦いは、手段から目的に転化し、泥沼に化していくわけです。
世界の紛争は、ますます泥沼化していくことが心配です。
そうしたなかで、国家に頼らない、新しい紛争防止の仕組みが必要になっているのでしょう。
NGOの開かれたネットワークが育っていくまでは、しばらくこうした時代が続くのでしょうか。
ともかく、国家の枠組みで考える時代は終わったのかもしれません。
さらに思いを広げていくと、アメリカも日本も国家体制が解体し始めているのがわかります。
ブッシュのアメリカとアメリカに住む2億人の人たちの集まりであるアメリカは、いまや別のものになっているといえないこともありません。
日本もまた麻生政権に象徴される日本と派遣村に象徴される日本とは別物なのかもしれません。
そう考えると、昨今の厳しい現実生活と権力闘争に明け暮れる政治の不作為との並存が理解できます。
それに、日本の政治家の発言を聞いていると、国家や国民は全く眼中にないようです。
自民党からの離党を取りざたされている渡辺議員は、政治家だった父親は、「派閥の前に党があり、党の前に国家国民がある」と言っていたと話していましたが、いまや「国家国民」がなくなってしまっているのかもしれません。
少し飛躍してしまいましたが、マルチチュードの時代はもうそこまできているようです。
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