« ■節子への挽歌512:ケアの本質は「生きることの意味」の確認 | トップページ | ■節子への挽歌513:初対面の若者からのメール »

2009/01/26

■隣の人のたばこの煙で考えたこと

先日、久しぶりに喫茶店に入りました。
久しぶりにというのは本当は不正確です。
というのは、時々は行っていますので。
しかし、今回は久しぶりに「喫茶」してしまったのです。
細長い喫茶店の両側のテーブルにヘビースモーカー(私とは無関係の人ですが)がいたせいで、たばこの煙を思い切り吸わなければいけなくなったのです。
席を替わりたかったのですが、相手の人と久しぶりに会って、やっと見つけた席だったので、動けませんでした。
ついでに余計なことをいえば、喫茶店やレストランがどこもかしこも満員で、席がないのにも驚きました。
日曜日の午後の上野駅界隈です。
どこが不況なのかと思うほどです。

それにしても横でたばこを吸う人の煙がこんなに辛いものだとは思いませんでした。
学生時代や会社にいた頃は、毎日、少なくとも2回は喫茶店にいました。
当時は禁煙席などあるはずもなく、しかも喫煙者は多かったはずですが、煙で辛かった経験はありません。
会社を辞めて、喫茶店に行く機会は激減しました。
それに行っても禁煙席を使わせてもらっています。
ですから、たばこの煙に対して抵抗力が大幅に落ちているのでしょう。

そんなたばこの煙に弱い人が隣にいるとは、喫煙者は気づくはずもありません。
彼らはルール違反をしているわけでもありませんし、悪意など微塵もないでしょう。
しかし、隣の人は辛い思いをしているのもまた事実です。
極力我慢はしましたが、煙が強く流れてくる時には、私は手で煙をよけるような仕草をしたような気がします。
喫煙者に気づかれなければよかったですが、もし気づいたら不快だったでしょう。
自衛のための仕草といえども、喫煙者にとってはせっかくのたばこが楽しめなくなったかもしれません。

こういうことは私たちの生活では、よく起こっていることなのかもしれません。
周りの人への気遣いは、ルールを守ればいいわけではないのです。
気づかないままに私もきっとたくさんの迷惑を撒き散らしているはずです。
今回の体験で、そのことを考えさせられました。
生き方や言動は、やはり常に周りの人の目でも考えなければいけません。
そうした視点で自分の言動を考えると、反省する点が少なくありません。

平和というのは、まずはそこから考えなければいけないのでしょう。
たばこの煙がもしかしたらガザの悲劇につながっているのです。
おそらくイスラエルの国民は、いつかどこかでもっと大きなしっぺ返しに合うでしょう。
イスラエル政府の暴挙を止めるのは国連でも国際世論でもなく、イスラエル国民であり、イスラエルの「愛国者」たちでしょう。
そう思ってまた日本の現状を見ると、やらなければいけないことが山積みです。
日本政府もまた、たくさんの迷惑を海外にも与えているような気がします。
私たちはもっと真剣に政府の言動に関心を持たなければいけません。

今朝の朝日新聞に、京浜ホテルの強制執行の様子を「カムイ伝」の一揆に重ねて論評していた記事がありました。
一揆が話題になるほど、今の日本の社会はひどくなっているような気がします。
いささか過剰な反応でしょうか。

|

« ■節子への挽歌512:ケアの本質は「生きることの意味」の確認 | トップページ | ■節子への挽歌513:初対面の若者からのメール »

平和時評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■隣の人のたばこの煙で考えたこと:

« ■節子への挽歌512:ケアの本質は「生きることの意味」の確認 | トップページ | ■節子への挽歌513:初対面の若者からのメール »