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2009/01/31

■節子への挽歌517:地球が爆発してすべてがなくなってしまえばいい

いささか不謹慎なタイトルです。
昨日の挽歌を書いた後、心の中にずっと潜んでいた気持ちを解き放すことにしました。

節子が再発して以来、そして節子を見送った後、一度ならず、地球が爆発してすべてがなくなってしまえばいいと思ったことがあります。
さすがに最近はそういう思いはなくなりましたが、心のどこかに今なお、そうした気持ちがうずくまっているような不安がないわけではありません。

通り魔事件のような、とんでもない惨劇を起こしてしまう人がいます。
そういう報道に触れるたびに、自分にもその可能性は皆無ではないなといつも思います。
ゲーテは「自分がその犯人となることを想像できないような犯罪はない」と言っているそうですが、私も同感です。
人の心の中にはたくさんの悪魔もまた棲んでいるのでしょう。

節子との暮らしの終わりは、私にとっては世界の終わりのように感じたこともありました。
だからといって、地球とその世界を道連れにするのはどう考えてもおかしいのですが、このまますべての世界がなくなればどんなに安堵できることかという、不条理な妄想を描いてしまう心境になってしまうこともあったわけです。

人を愛することの恐ろしさが、そこにあります。
この挽歌は、基本的に愛を肯定的に考えています。
私自身の生き方が、愛を基本においているからです。
私にとっては、平和やまちづくりはもちろんですが、企業経営も愛が基本なのです。
私の頭の中では、愛がない世界も愛のない現実も成り立たないのです。
キリスト教では、愛を3つに分けています。
エロス、フィリア、アガペです。
どの次元で「愛」を考えるかが大切だと言う人もいますが、私にとっての「愛」は一つです。
私にとっては、愛は分析の対象にする概念ではないからです。

最近も無理心中の報道がありましたが、無理心中は愛の歪んだ現れではなく、「愛の不在」の現れです。
「愛」を支えているのは、「生きる喜び」です。
ですから、ある日突然に「愛」(の行き場)の不在に気づいた時に、人は不条理な誘惑に負けてしまうわけです。
「愛」の不在は「死」を誘ってしまうわけです。
すべての愛をある対象に注ぎ込んでしまうことの恐ろしさを認識しなければいけません。
私はどうも節子に愛を注ぎ込みすぎていたのかもしれません。
しかし、それにもかかわらず節子を救うほどの愛には達しませんでした。
地球が爆発してすべてがなくなってしまえばいいなどと思うようでは、「愛」を語る資格はなかったのかもしれません。
いろいろと考えることの多い最近です。

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