■節子への挽歌510:自我はたくさんの我の集合
南方熊楠は、自我は「単我」ではなく、複数の我の集合であると書いています
最近は多重人格ということがかなり一般的にも認識されだしていますので、このことにはそう違和感を持つ人はいないでしょう。
「心のマルチ・ネットワーク」という考えもあります。
これはとてもわかりやすいです。
私流の表現をすれば、人の心の中にはたくさんの心がいて、状況にあわせてそのだれかが主役になるという考えです。
まさに、南方熊楠の表現そのものです。
実はこの構造は、ユングの集合無意識や唯識論の構造とフラクタル(相似形)と考えれば、とても合点がいきます。
アメリカの社会心理学者ジョージ・ハーパート・ミードは、自己(self)は、I(主我)とme(客我)から成っていると言っているそうです。
meとは、自己の中に取り入れられた他者です。
「自己の中の他者」って何だ、と思われるかもしれませんが、おそらく感覚的にわかってもらえると思います。
自分の心の中には、「見ている自分」と「見られている自分」がいますが、見られている自分の中には、自分でないような自分もいます。
しかし、いつの間にか、その「自分でない自分」が自分の主役になってしまうこともありえます。
生命はオートポイエーシスという「自己創成」のシステムだという考えがあり、私はその考えがとても気にいっているのですが、
私たちは、他の人と付き合うことで、自分を変えていきます。
いや変わっていくというべきかもしれません。
それが年を重ねるということであり、「成長」です。
しかし、他の人と付き合うということは、その人とつながる要素がなければいけません。
つまり、つきえる他者の分身は、すでに自らの中にいるということなのです。
長々とまた書いてしまいましたが、私の中にはたくさんの自分に混じって、最近、節子の姿が見えていることを書きたかったのです。
私の言動に対して、たくさんの「自分」が意見を言ってきます。
そのたくさんの「内なる声」との会話の中から、私は実際の言動を選んでいきます。
ところが最近、そこに「節子の声」が聞こえるのです。
そして、それによって、気づかなかった節子に出会うこともあります
今もなお、私の人生の伴侶は節子です。
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