■節子への挽歌508:自然の一部として、自然に生きる
節子
小雨の降る寒い1日でした。
どんよりした空、そして身体を凍えさせるような寒さ、そのためかどうも元気が出てきません。
人の生命は自然とつながっていることがよくわかります。
節子が手術をしてから4年半。
私たちは寄り添いながら暮らしていましたが、節子を通して自然を強く感じるようになりました。
暑さ寒さ、空の雲の広がり、気温や風、そうした自然に人間の心身は素直に反応することを、節子から教えてもらったわけです。
もっとも当の本人である節子自身は、必ずしも自覚していませんでしたので、おそらく今の私自身も、そう敏感に自覚できているわけではないでしょう。
しかし、節子の変化の様子が思い出されて、それにむしろ影響されてしまっているのかもしれません。
そのせいか、自然と節子の思い出と私の気分がなんだかワンセットになってしまっているのです。
真っ青な快晴の空を見ると節子の元気な笑顔を思い出しますし、今日のような寒空を見ると首を縮めて暑いお茶をすすっている節子を思い出します。
そして、重苦しい雲の向こうに、ついつい節子を感じてしまいます。
そうしたイメージが私の行動に大きな影響を与えているのです。
先日、おいしいと評判の高いブランド品のコーヒーをもらいました。
早速いただいてみました。
私はいつものとそう違わないような気もしましたが、一緒に飲んだ、「ブランド」通の人は「やはり美味しい」と言ってくれました。
まあそれはともかく、私たちは「ブランド」などの情報によって、物事を判断しがちです。
今日もゴヤの「巨人」の画はどうやらゴヤの弟子の作品だという報道が新聞に出ていましたが、絵画にしても誰が描いたかによって私たちの印象は変わってしまいます。
知識のおかげで、私たちは芸術作品を素直に見られなくなってしまったと、スーザン・ソンダク(以前、Comfort isolatesのところで紹介しました)は嘆いていますが、同感です。
私自身は、ブランドにも権威にも意識的にはとらわれない自信はある程度ありますが、最近の自然の受け止め方のことを考えると、どうも危うい気がしてきます。
自分の心身で世界をみることの難しさは、この頃、痛感します。
ところで、東洋の思想の根底にあるのは、生命は自然の一部だということです。
自然と人間とを対立させて考える西洋の思想とは全く違います。
しかし、西洋の思想にしても、たとえば聖書では、神様は土から人間を創ったとされていますから、本来は人間が自然の一部であると意識していたはずです。
自然の一部として、自然に生きる。
それが最近の私の理想なのですが、どうも小賢しい知識と無意味な私欲を吹っ切れずにいます。
節子がいた時は、そうしたことの無意味さを節子がその生き方において教えてくれていたのですが。
それにしても今日は寒いです。
あたためてくれる節子もいませんので、なおさらです。
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